本当に欲しい人

先々月のある休日、ロレックス某正規店でのこと。ある顧客が店員に語った言葉が耳に入ってきた。「一部の不届きな転売者のせいで本当に欲しい人の手に渡らない状況はけしからんですね」。

一見(一聴)正しいかに思えるこの主張を私は全否定する。

転売者とは、買ったものをそれよりは高く売って差益を得る者、あるいは得ようと行動する者と定義付ければ、あなたも私も結局のところは転売ヤーである。時計好きの多くはそうであろうし、時計ショップなどは100%転売者である。オノマックスもクォークも宝石広場も、そしてウォッチ・ザ・ウォッチもだ。スイスから仕入れて卸す日本ロレックスだって実はそうだ。そして冒頭の言葉を語った本人も生涯純増を貫かない限り実は結局のところ転売者である。いや、買ったその足で売るのと、購入してから数か月、あるいは数年後に売却するのとでは違うというかもしれないが、本質的には同じ。しかし、その議論は一旦脇に置く。

私が問題にしたいのは転売うんぬんの下りではなく「本当に欲しい人」という箇所だ。「本当に欲しい人」とはおそらく消費者としてその時計が欲しく、かつ購入したら使う人を意味しているのだろう。その行為は正しいというニュアンスが言外にある。正しい購入者、あるいは正当な消費者。その対極に、欲しくもないくせに購入して転売し儲ける「不届きな奴」がいて、それは不正行為、あるいはインモラルだというニュアンスがある。

不届きな転売者がいるせいで「本当に欲しい人」が新型デイトナを買えないことはけしからんこと。そうだろうか…。私は違うと思う。

100万円を超える高級時計を「個人で所有したい人」と「差益を得たい人」。どちらも強い欲望の支配下にある。両者とも、ロレックス・新型デイトナ116500が欲しい。正規店で買いたい。その欲望があまりに強烈であるがゆえに何度も何度も正規ショップに足を運ぶ。時計に興味のない人から見れば、言葉は悪いがどちらも同じ穴のムジナではないのか。私はそう思う。試しに女房殿にどちらが×(バツ)か聞いてみればよい。意外と女性は、コソ買いのアンタ(=本当に欲しい人)の方がよっぽどけしからんと言うかもしれんゾ。

どちらも同じだと私は思う。そしてどちらも否定しない。いや否定どころか肯定する。人の欲望こそが市場を活性化し、極論を言えば社会を発展させていると思うからだ。だが、買えないからといって、欲しい者同士で一方が他方を批判するのはおかしいだろうということを言いたかった。更に書けば文句を言うべき相手が違うだろうとも。デイトナが手に入らないこの状況を作っているのは「転売者」ではない。多くの人を困らせ、疲弊させ、失望と徒労を味あわせているのはみんなが大好きなロレックスなのだ。いくらロレックスが好きで、そのブランドを愛し、自らをロレ病などと自嘲しても、人はその奴隷ではない。例え相手が大好きなロレ様だろうとおかしいことにはおかしいと言うべきだし、伝える手段がなかったとしても心中でずっとそう思い続けるべきではないか。供給がないことだけではなく、自分が金を出したわけでもない店員が、客の目の前で新品時計の保護シールを剥がすのとか絶対におかしい。嘘か本当か、店で見つけても銀行に金を下ろしにいく間もHOLDしてくれないとか、電話で確認したら奇跡的に在庫があったが取り置きしてくれないのでその店のある街まで2時間車をぶっ飛ばしたとか。わはは。これマジだったら相当だな。血相変えてハンドル握っただろうな。危ないなあ。「待ってろ、俺のでいとな~~~~~~~!」。

私は新型デイトナに興味がない。個人の時計好きとしてまったく興味がない。上に書いたように今現在のロレックスという会社のやり方に腹も立てているので現行品を買おうとも思わないし好きではない。もしフラっと正規店に行って新型デイトナが売っていたってもちろん買わ、う。ハハハ。どっちだよ。買う。絶対に買う。誰に何といわれようがやっぱり買うだろ。これを読んでいる人もそうだと思う。そして、使ってホクホクの人もいるだろうし、中古屋へ持ち込んで差益を手にしてウハウハの人もいるだろう。ホクホク、ウハウハどっちもいいではないか。その人がハッピーなら尚のこと。これら行為は果たして「けしからん」のだろうか。ロレックスにとっていびつな状況をロレックス自身が作り上げてしまっているくせに、後者の顧客をまるで違反者か悪徳者であるかのように扱うことにやっぱり私は納得がいかないのである。

悪い癖でまた私の話が逸れつつある。ということで、最後にもう一度今日の本題について書いておきたい。人が時計を欲しいと思う気持ちに本当もくそもない。みんな欲しいのだ。そして手に入れた人をやっかむことはやめよう。「良かったな。おめでとう」って気持ちよく言ってやれる男であろうよ。いくつになろうとも。プラス、長いものに巻かれるんじゃなく、おかしいことはおかしいと言い続けよう。これもまたいくつになろうとも。
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時計は回るよグルグルと

かつて私はロレックス好きというのは数えきれないぐらいの数の人がいると思っていた。コアからグレーゾーン、そして初心者まで含めると、それこそ数万人、いや数十万人はいると。だが、今私は自分のその感覚を大きく下方修正している。実はすごく少ないのではないかと。なぜそう思うかというと、どうも少ない数の人が、少ない数の時計を頻繁にぐるぐる回しているとしか思えないからだ。

以前の記事で、私が過去に手放して後悔していた個体をあるお店で偶然に発見し買い戻した話を書いた。当時の私は、この広い日本のマーケットで果たした再会を「奇跡」だと思っていたのだが、昨年10月に店をやってから、過去に私個人が手放した時計が2本、買取りで入って来たという事実がある。見覚えあるなあと思ってシリアルを確認したらビンゴである。私が過去に数百本のロレックスを売り買いしてきたならわかるが、開業前の私が数年間で買って手放したロレックスなどたかが知れている。手放したそのうちの合計3本と妙な再会を果たしたこと、これをどうとらえるべきか。

つまり、非常に少ない顧客が、これまた少ない個体をぐるぐると回しているというのが私のあまり当たって欲しくない見立てなのだ。過去に私が購入し手放した時計というのはどれも市場ではなかなかのモノばかりだ。こう書くと自慢のように聞こえてしまうかもしれないが、まあ事実だ。そういう個体は、日々情報をキャッチしようと餓狼のごとくネットを徘徊する(そうは多くない)ロレマニアたちが買い占め、それらをこれまた飽きっぽい(失礼!)ロレマニアが数年単位、時には数か月単位で手放し、それをまた別の狼がゲットするという構図でグルグルと回っているのではないか。

つまり、はっきり書くと、コアなロレ好きの数は実は少ない。そして、決して若くはなく、少々書きづらいが、、、彼ら、つまり皆さんはとても飽きっぽい。更に書くと、新しい時計を買う際に結構な頻度で手持ちを手放す。そういう少数の、ロレックスがめっちゃ好きだけど、すぐに飽きてしまう人々によって時計がグルグルと回り、中古ロレックスというマーケットが成り立っているのではないかと見立てた。実際のところコアは700人ぐらいしかいないのではないだろうか(笑)。いやもちろん冗談である。冗談だからわざわざ(笑)と書いた。700人なんて少なすぎてシャレにならない。たが、ではその10倍の7000名いるとオマエは本当に思うかと聞かれたら、とてもじゃないが「いる」とは断言出来ないな。まったくその実感はない。小野さんとこもいつも常連さんが買っていて、「初めてのお買い上げありがとうございました」の記述は滅多に見ない。同業の新着時計には「あれ、この個体は先日…」というものが結構多い。やっぱりグルグルなのではと思うが、まあそれならそれで良いし皆で仲良くやっていこうではないか。結局のところ、あなたも僕もキミも俺もみんな変態なのだから。

故きを温ねて新しきを知る

会話中にフト相手の左腕に目を遣るとそこにはエクスプローラーが。ヴィンテージ1016である。ちょっとそれ見せてくれろと手に取らせてもらったのだが、まあ何というかやっぱり絶品だなこれは。70年代前半のマット仕様。ケースの大きさ、デザインの良さ、そしてバランス。文句の付けようがない。昨今では36mmのケースは小さい部類ではあろうが、3針のみというこのデザインではこれ以下も以上もない絶妙なサイズ。私は1016をこれまで所有したことがなく、多分これからもないのだが、エクスプローラーⅠは114270や14270より前の1016ですでに完成の域にあったことを(あくまで主観として)改めて認識する。

故きを温ねて新しきを知る。

逆に「最新こそ最良」という言葉もある。私は半分は正しく、半分は正しくないと思っている。工業製品という側面からだけ見れば最新こそが最良かもしれぬ。しかし、人間に正確な時間を提供するというシンプルな意味において時計の進化はとっくに行く着くところまで行き着いてしまっており、時計は工業製品ではなくもはや装飾品の色合いが濃い。前に時計の価値の大部分はデザインの良し悪しであると断じた。そうであるならば「最新こそ最良」はまったく正しくない。むしろリスクである。

デザインとは表現である。表現の世界は水物。どんなに優秀なアーティストだろうがディレクター(監督)だろうが、表現や制作の現場で最新こそ最良なわけがない。むしろ逆。評価が定まるには長い歳月を必要とすることが多い。そのキャリアや系譜の中に、良いモノもあれば当然のごとく駄作や失敗作もある。いや、むしろ駄作や凡作の方が遥かに多く、またその時々の周辺の流行にも大きく左右され、時に陳腐化し、時に再評価される。歳月が経ってみないとなかなかその真価も見えて来ない。

上に記載したエクスプローラーⅠ 1016などは何と言えばいいか、ケチのつけようがないと言うか、私は自己所有の同じ系譜である114270をこよなく愛好しつつも、かなわないなと素直に思ってしまうのだ。

5桁の高騰が著しい。

ここ数年ひどい値上げを実施した現行6桁の価格を5桁の中古価格が上回ろうかという勢い。それは現行品への失望の表れでもある。人気モデルが手に入らないことへの失望であり、やたら派手で華美になったデザインへの失望であり、更にドレス系や金無垢・宝飾モデルを売りつけたがるメーカー戦略への失望である。そう、ステンレス製の極一部のスポロレを除くと、ロレックス社が売りたい最新現行モデルの多くはあまり人気がないのだ。ドレスモデルのオイパペ、チェリーニ、デイデイト、金無垢デイトナなど。だから市場のお金が4桁、5桁に流れている。これは世界的な傾向であるがゆえに、一部の人気ディスコンモデルは品薄となり価格が高騰したというシンプルな図式。GMTマスターⅡ、エルプリデイトナ、旧グリーンサブなど。

今後については、価格については多少の変動はあるだろうが、価格よりもむしろ危惧すべきは、4桁・5桁がもうこの先生産されることはなく数は減る一方であるという事実。欲しいモデルがある人は本当に押さえておいたほうがいい。コレクターは当分手放さないだろうしし、皆さんが考えている以上に良質な個体は相当数が海外に流れており、この勢いは止まりそうもない。とは言え、中古も人気と不人気の2極化が著しい。個人的にはチュードルのサブ&クロノタイムは鉄板だと確信しているが、それについては長くなりそうなので別の機会に。*でもタイガーは駄目よ。

反省

それにしても前回の文章は下手だ。あの日、というのは7/1の土曜日の夕方のこと、予定外に仕事が早く終わったので、たまには更新しようとがんばって書いていたのだが、途中で飽きてしまい(すまぬ)、さらに腹が減り、かつ仕事が終わったので無性にビールも飲みたくなってしまったのである。それで、何と言うか、適当というか、かなり雑にそそくさと書き終えてアップ、近所の鄙びた中華料理屋へ行って長崎ちゃんぽん&ギョーザセット・ウイズ・生ビール(生ビールはお代り有り)を。いい気持ちになり、事務所に戻ってグースカピーと寝てしまったのである。今読み返しても支離滅裂だとは思っていないのだが、かなり乱暴な文章であるのは間違いない。

前回の記事で書きたかったのは、自分を含む多くの時計好きは余計な観念に捉われ惑うものだが、そういうものから解放された時計というのは良いものだと、そこで終わっていればスッキリしたのだが、ツラツラと余計なことを書き足すものだから、今読み返してもとても分かりづらい。相変わらず文才欠如である。そういう本当に好きな時計を得たにも関わらず、我は相変わらず余計な観念に縛られているよなあ、でも趣味って結局はそういう「しょうもないこと」に縛られるものだよなと、その堂々巡りぶりを書いたつもり。自分で言うのもなんだが大した内容ではない。だが、「あっ、時計屋のためになっている」…の下りは「ふぇふぇふぇ、我ながらおもろいやんけ」と自画自賛したことをここで告白しておく。ダウンタウンの松ちゃんがギャグを口にして言い終わっていないのに、その面白さについ自分が先に笑ってしまっているのと同じ構図。それに、たまにはこうやって自分で自分を褒めないとブログなど面倒くさくてやってられないという側面もある。

今日の東京は梅雨の中休み。日差しが眩しかった。暑い日が続くので、5桁以上の時計(スポーツ系)はたまには水道水でじゃぶじゃぶ洗うことをおすすめする。やってみると分かるがとっても気持ちよい。細かいことは気にせず、手洗い用の石鹸の泡でゴシゴシ洗ってよい。ただし竜頭はしっかり閉めること、これ大事。そして、多くのロレ好きはもう決して若くはないのだから過信せずお互い身体には気をつけたいもの。夏は大雨による天災やら事故が多い季節でもある。小さい子どもがいる人は特に。平凡な日常こそがありがたい。では、また次の更新で。

【質問への返事】
1675のMK2はシリアル51~の77年製はあると認識している。下記リンク先はMK2のシリアル51~である。針が交換されているので本当にオリジナルダイヤルかと問われたら断言はできない。基本的にMK2は1971年頃の個体に多い。参考になれば。
https://www.hqmilton.com/timepieces/80x7g53r/1978-rolex-gmt-1675-3390

6月、初夏、シード

6月に入ってしまった。もう日差しは夏の気配。先月はほとんど更新できず。下書き原稿はたくさんあるのだが、私の嫌いな写真アップの作業が残っていたり、記述の裏取りがやはりまだ出来ていなかったり、などの理由で遅れている。日々訪問してくれている人もいるようで本当に申し訳ない限り。と詫びながら今日も大した内容ではない。

GWが明けると私は時計の衣替え?をする。従ってヴィンテージは秋までケースの中で休み。私は汗かきということもあり、時計は頻繁に水道水でじゃぶじゃぶと洗いたい。特に夏は。だが製造から半世紀近く経った古い時計ではそうはいかない。ということでチューサブ94010, 94110、GMT1675、サブ5513、スピマス145.0022、手巻きデイトナ6263、ポール6239、赤シード1665などはケースに仕舞われてしまうのだ。と、今、ジョークで嘘をついた。最後の3つは持っていない。ちょっと試しに見栄を張ってみた(笑)。

で、初夏の太陽が眩しい今の季節は何を使うかというと、それはシードしかないだろう。夏はシードである。実際に使う時計はもうこれ一本でいいかもしれない、私にはそう思えてしまった時期があった。もちろんこれからも時計を買うだろうが、実際に使うのはシードゥエラー16600だけで良いのではないかと。前にも書いたように、私は「使われない時計はかわいそうだ」などとはまったく思わない人間で、実際のところ16710とか2年ぐらい腕に巻いていない気がするし、エルプリデイトナもそうだ。まあ、それは単に面倒くさいのである。日々使っている時計は帰宅したらその辺に置く。翌朝それを手に取って仕事に出る、その繰り返し。秋から冬を経て春先までは1ヵ月ローテぐらいで古い時計を付けたりもするが、夏はとにかくシード一本。鉄板。

自己所有のシードは、色々な経緯があって、6時側コマカットの4駒で装着、腕周りの細い私にはこれがジャストフィットで長年のストレスから解消されている。もういちいち時計を見るたびのトキメキなどは無いが、その自然さのほうが今は心地よい。前にも書いたように、これは一度手放してから戻ってきた個体。コマカットのブレスは「この先はこの時計をずっと所有し続けよう」という自己表明のようなもの。色々と手を出したが、やっぱり16600は最高。そう思える時計と出会えたのだからシアワセ者である。

今、仕事場では外の祭りのお囃子がトントン・シャンシャン鳴っている。さっきポストに手紙を投函しに外へ出たら、テントの中でじいさんたちが酒で顔を赤くしていて、はっぴを着せられた小さい子たちがとても可愛い。みんな笑顔で楽しそう。見知った顔があったので挨拶したらビールを振る舞われ、紙コップのそれをグビグビと。旨いなあ。まるでヤクルトみたいに飲むねえと見知らぬじいさんに冷やかされ、もういっぱい、ホレと。「あー、いや、すみません」。うわ、ウマー。もう仕事やめよう。ということで今日更新した。夏であるなあ。ニッポンの夏はイイなあ。ではまた次の更新で!

トリビア

個人的な話だが、今日私は休日である。窓の外はとても良い天気。一年で最も良い時期かもしれない。

珍しく日を置かずに記事をアップ。今日はトリビア(雑学的な知識)。時計を扱っていて知った豆知識の披露を2つほど。

2002年頃を境にロレックスの風防の6時位置に小さな王冠マークが刻印されていることは皆さんもご存知のはずで、ネットでは偽物を見分ける初歩としてよくそのことが書いてある。キズミで見ると確かにしっかりと見えるし、私は自慢じゃないがほぼ肉眼でも見える。だが、個人としての時計好きの時代から今日までで、私は6時位置に刻印のないロレックスを2度発見したことがある。5桁のV番とランダムである。最初は血の気が引いたものだ。やってしまった!と。だが、持ち込んだ丸の内ロレックスカウンターの別嬪さんは「本物ですよ」と事もなげに言う。「たまに付いていない個体があるんですよ」と。おいおいマジか。そんなのどこにも書いてないぞ。これは奥のカウンターの技術師さんの見立てでもあるから間違いない。ご存知のように社外風防がついていたら即座に指摘される。それから数か月後、また発見。結果は同じ。正規品ですと。従って、新説として書いておく。たまに風防6時位置に、あるはずの王冠マークのないロレックスがある。数百本のロレックス風防をキズミで覗き込んだわけではない中での2本という確率。些細なことだが、結構常識をくつがえす事実ではないだろうか。

次。皆さんがお持ちの70年代、80年代のトリチウムは半減期が過ぎてまず光らないはず。私が個人所有するサブ5513(1983年製), GMT1675(1978年製), デイトナ16520L番(1989年製)もどれもが無反応だ。しかし、なぜか60年代の個体の多く(67年頃まで)は、ブラックライトを当てるとギラギラ光る。これまで私が個人所有するものも、店に入ってきたものもみんな光る。サブ、チューサブ、GMT、デイトジャスト、エクスプローラー…。なぜだかよくわからない。ラジウムが混ざっているのかもしれない。中にはリルミ(再塗布)だと主張する人もいるが、私はそうは思わない。なぜならフルオリジナルの69年製スピマスのインデックス&針も下記写真のようにしっかりとグリーンに光るからだ。新説というわけでもないが、知らない人は知らない事実なので、やはり書いておく。むしろロレックスのミラーダイヤルでブラックライトに反応しない個体のほうが私には??である。

今日記載したことが常識だろという人には申し訳ない。少なくとも最近まで私は知らなかったので、私と同じように知らなかった人のために今日は書いた。そして、特に60年代の夜光が今も光る理由についてご存知の方がいればぜひお教えいただきたい。知るはいっときの恥というが、恥などどうでも良い。真面目な話、ぜひ教えていただきたい。

GWはもう少し続く。休める方はぜひ良い休暇を。本当に良い日和。年を取ったせいか、最近気候が良いとそれだけで幸せな気持ちになる。こんな時期ぐらいは時計のことも忘れて良いのでは、と思ってしまう。

TRITIUM.jpg
光るのはほんのわずかの間で、すぐに発光はなくなる。

言い訳

年が明けてから、別の仕事で私のミスというか遅延で結構な数の人に迷惑をかけてしまい、ブログを更新する時間も余裕もなく今日まで来てしまった。店にもほとんど顔を出しておらず、店長さんに任せっぱなし、先週久々に顔を出したらずいぶんたくさん時計があってちょっとびっくり&うれしかったりもした。たまには更新しないとトップに変な広告が出てくるので、今日は没予定だった過去の原稿をアップ。去年の今ぐらいの時期に下書きした原稿である。最初に前置きしておくが、大した内容ではない。

時計を買う際、多くの人は自らに対してなにがしかの言い訳をするものだが、それらは本当に面白い。4~5万円の買い物だって安くはないのに数十万、時には百数十万円ともなると人はそれなりのエクスキューズを必要とするようだ。まだこのブログにコメント欄があった頃はよく「極上のGMTを見つけました。ギャラも付属品もバッチリ付いていて本体も極上の58万円です。オイパペさん、どうでしょうか?買いでしょうか。オイパペさんのような方に背中を押していただきたいのです」などというコメントを貰ったものだが、もうご本人はプールサイドで飛び込みの姿勢でいるようなものである。どうでしょうか?などと質問しながら、すでに前傾した身体の背中が「押して!早く押して!」と言っていて、手で押さなくても、尻にフッと息を吹きかけるだけで、勢いよくバッシャ~ンとプールに飛び込むようなもの。まあお勧めすることもあったし、正直にやめたらどうですかと返したこともある。

「言い訳」に話を戻すと、私もまた同じである。私もまたいつも自分への言い訳を必要としている。

よく見聞きする言い訳そのいち。「将来、息子にゆずる」。出た。これは美しい言い訳なのだが、実行できなかったときは実に見苦しい言い訳となる。だから安易には使わないほうが良い。大きなお世話だが、これの実施率、実行率はかなり低いと私は見ている。仮に子どもが乳幼児の場合、実施時期は成人を記念するなら15~20年後。2年も経たずに手放すロレ病患者には苦行のような長い長い歳月である。西暦2036年にそれを実行できれば立派だが、私にはその自信は到底ない(実は私も白の34mm径エアキングを将来娘に譲ると心で誓って、数か月後にあっさり売却してしまった痛い過去がある)。それに子どもがそれを喜ぶかどうかも極めて怪しいし、親の価値観の押し付けもよくない。20年後には時計など誰も身に着けない時代にだってなっているかもしれない。とは言え、実行できれば立派なことではある。

次。「がんばった自分へのご褒美」。基本的にこれは女性がよく使う言葉である。女性がちょっと贅沢な海外旅行やブランド品を買うときによく使う言葉。広告代理店はそれをよくわかっていて、旅行会社の宣伝キャッチコピーでしばしば目にする。「がんばった自分へのご褒美に今年の夏はバリ島で!」。これもまあわかるのだが、男ならがんばった自分へのご褒美はその日の一杯の酒ぐらいで済ませておこうではないか。「よくがんばったぜ自分、立派だったぜ自分、乾杯!!」と。さすがにサブマリーナはちょっと褒美が過ぎる。がんばった自分へのご褒美に80万円のロレックスを買いたいと女房に言ったら、全人類の98%ぐらいのおとっつあんはぶん殴られるか、最低でも罵声を浴びるはずである。だが、もし、「いいじゃない!あなた、がんばったんだもの。大賛成よ!」などと言ってくれる稀有な女房がいるうらやま男はどんどん自分へのご褒美としてロレックスを買い給え。遠慮することはない。多分、貴殿は神に選ばれた男だ、行先はもちろん東京の神田神保町であることは言うまでもない。大歓迎である。

次。「ビビッときた」。ハハハ。わかる、わかる。だが、これはもはや言語や思考の放棄である。冷静な判断、理性、踏みとどまり、我慢などのあらゆる人間的で高邁な精神の敗北とも言える。ビビッときて歯科医と結婚した聖子ちゃんもすぐに離婚したではないか。ちなみに彼女は「生まれ変わったら一緒になろうね」とも言った。怖ろしい言葉である。ひろみGOは震え上がったに違いない。私だったら別れた女がそんなことを言ったら、恐怖で髪の毛が逆立つだろう。「ビビッときた」は聖子ちゃん病と私は名付ける。他にも「時計が自分を呼んだ」というのも聞いたことがある。「ショーケースの中のサブが俺を呼んだんだよー」。呼んでない(笑)。呼んでませんよ、絶対。ただのメカ。機械。時計。道具。

夜中に独りで笑ってしまった。自分でブログを書きながらゲラゲラ笑っているのだからおめでたい男である。では私はどうかと言うと、私もまたたくさんのしょうもないエクスキューズをひねり出してきたが、最もひどいのは「人生には限りがあるのだから」というやつ。「人生には限りがあるのだから、今こそサブマリーナ!」。人生に限りがあることは事実であり、確かな真実である。だから、たくさん本を読むとか、人との出会いは大切にするとか、一日一日を無駄に過ごさないとか、そういう方向に行けばいいものを、なぜかロレックス。また少々似ているのだが、「自分はもう50だ、きっと60代になったら時計の売り買いをしても楽しめる人生ではないだろう。だったら今買ってしまおう」という言い訳も所有している。ご想像の通り、多分私は60になったら、「きっと70代になったら時計を楽しめる人生ではないだろう、だから~」と言い訳するに違いない。

結論めいたことを書くならば、欲しい、買う。もうこれしかない。それはそれなりの十字架なのだ。あとは背負って生きていくしかない。その十字架を下ろしても、人生にはまた別の十字架がある。名誉欲、出世欲、その他への物欲、性欲、すべての煩悩を避けるのなら坊主になるしかないのが人の世だ。そもそも我々は他の命を食らって生きている。大切なのは言い訳ではなくそれを背負って生きることではないかと、最後はやや抹香臭いことを書いておく。

「人生には限りがあるのだから、今このサブマリーナを思い切って買うぜ!」。これ、実はそれほど間違っていないのではないかと思っている。だが、ロレックスは特大の欲望だから、その代わり他のことで特大級にがんばらないと駄目だ。がんばったご褒美にロレックスとは真逆。がんばったからロレックスではなく、ロレックスを買ったからがんばるのだ。似て非なるもの、私にはこの方がスッキリする。

研磨について

正月以来まったく更新できずにいたこのブログ。年明けから元々の仕事が忙しくなかなか書けずにいるが、今日はがんばって更新。テーマは研磨(ポリッシュ)について。

オーバーポリッシュというのは嫌なものである。特にヴィンテージの世界に入ると、それはもう研磨&メンテ履歴との戦いと言っても良い。古い時計のエッジが丸くなってしまった個体は、文字盤がどれだけ美しくても入手が躊躇われるもの。特にサブやGMTは本来のケースのエッジが立っているため、オーバーポリッシュはどうしても目立ってしまう。

だが、研磨と言ってもすべてをひとくくりにするのは間違いだと今の私は思っていて、私は下記の3つに分類している。
1)日本ロレックスサービスかそれに準じる技術を持つ工房による研磨
2)下手な業者さんによる研磨
3)素人による研磨

私は、1はむしろ推奨する立場なのだが、それはこのビジネスを始めたからではない。もっと前からだ。きっかけは入手したある中古ロレックス。それはワンオーナーのノンポリッシュ物でエッジはビンビンに立っていたのだが、ケースやブレスには結構な数の細かいスレ傷があった。どれも深いものではなかったのだが、ちょっとした心境の変化で私は物は試しとOH時、日ロレに研磨をお願いしてみた。別の理由で少々その購入が失敗だったと思える時計だったからということは正直に書いておく。早晩手放す予感がしていたということ。それが戻ってきたときの感動をどう言い表せばいいのだろうが。マジで感動ものであった。ケース痩せなどまったくわからないし感じない。帰宅してからその時計を手に取ってつくづく感動したのだ。こ、これはまるで新品であるなと。これが噂の日ロレ研磨かと。恐るべし日本ロレックスSC。

1967年に作られ、こんにちまでの50年間で、推定7~8人かあるいはもっと大勢の所有者を経てきて、その所有や売買の過程で何度も何度も研磨が繰り返されてきた個体と、5桁、6桁でここ数年1~2度研磨されてきた個体を、同じように研磨歴有りの時計とくくるのは絶対に違うと私は思う。

それ以来、私は個人所有の5桁以降は日ロレでのOH時には必ず研磨をしている。何の躊躇もない。ただしヴィンテージは別。すでに明らかに研磨歴の有る個体はケースバイケースの判断。

直近でHPに出したGMT16700。入ってきたときから誰が見ても本当に良い状態の時計だったのだが、それでもいくつかの薄いキズがあって、これはOH時、日ロレに研磨をお願いした。そうしたところ案の定、惚れ惚れする出来となって帰ってきた。問い合わせ段階で研磨歴有りと知って購入を取りやめた方が何名かいたのだが、私は出来ることならその人たちにそのビフォー・アフターをお見せしたかった。

未研磨を概念や観念として捉える人が多い気がする。「探すなら未研磨」。未研磨とは一度もケースやブレスが削られていない個体を言うのだが、そういう個体はデッドストックでもない限りは、通常では他人が付けた結構なキズがある時計のことである。ステンレスや無垢にキズがついている。もちろん観念としては、未研磨でキズがないものを望むのだろうが、ではあなたはたった一度の研磨を見抜ける絶対的な自信があるか。市場には「未研磨」を謳(うた)った個体は結構あるが、そもそも未研磨を証明することはとても難しいのだ。ほとんどが前所有者の自己申告でしかないし、あるいはその伝聞でしかない。私はリアルな個体を預かるものとして、証明できない未研磨というのをあまり過剰には謡いたくない。大事なことは観念としての「未研磨」ではなく、キズや磨きを含めて良い状態の時計かどうか、自分が買っても良い(売っても良い)状態の時計かどうか、リアルな時計を見て判断するその感性や眼力の方がよっぽど大事ではないだろうか。

気をつけるべきは、上記2や3によって下手に研磨された個体。エッジの角が丸くなったり、ラグ穴が垂直ではなくなるような下手くそな研磨は避けて然るべきだが、概念や観念としての「未研磨」に捉われるのではなく、よくよく個体を見て判断すべきだと私は思う。特に現行のGMTやデイトナなどのブレス中駒の鏡面部。元々ラグジュアリーな造りを目指した時計のそのキラキラの部分がすり傷だらけで、「未研磨」を誇るほうが私には奇異に思える。あの鏡面部は感動的なまでに元の輝きを取り戻す。またデイトナはベゼルに傷が付きやすいが、日ロレなら墨入れもやってくれる。ぜひ試してみていただきたいと思う次第である。時計についての「観念」は今の自分のテーマのひとつでもあるので、いずれ又書きたいと思うが、今日はこの辺りで。

よい年を

早いもので今日で今年も終わり。みなさんと同様、私にも色々なことがあった2016年だった。

12月は、人とお別れするときに、「よい年を!」、「よい年をお迎えください」などと挨拶をするが、年齢が50を越えてくると「良い年」など贅沢だなあと思えてしまい、「悪くない年」であればもう十分だとすら思う。決して謙虚なのではない。年を取ってから起きる悪いことって本当に悪いことだから。

それでもやっぱり、良い年を!

また来年お会いしましょう。

バブルの頃とは位置づけが変わったロレックス

私はバブル期に社会人となった。当時は「新人類」などといわれ、日本経済は世界を席捲するかの勢い、夜の街は活気にあふれ、深夜のタクシーは止まってくれず、先輩が本当に一万円札をかざしてタクシーを止めようとしたことを良く覚えている。給料も年に10%近く昇給していた記憶がある。1980年代後半から1990年代前半の話。都内のマンションは億に近くなり、それでも誰もがもしかしたら自分も手が届くのではと妄想した時代。株価は3万円を超え、至るところに土地成金や株成金が発生し、街の様子は開発によって月単位で変わっていった。当時のロレックスといえば、コンビのデイトジャストが定番。夜の街で何本のそれを見たことか。30代でバブルは弾けたが、まだ日本は裕福さの余韻の中にいた。

バブルの時代、日本の農協のおじさんたちが胸にメイド・イン・ジャパンのカメラをぶら下げ、傍若無人にパリやロンドンを闊歩し、彼の地の人々の眉をひそめさせた、同じことが今はトーキョーで起き、我々は近隣諸国人の振る舞いに眉をひそめる。ノーベル賞を受賞したディランが半世紀も前に「時代は変わる」で予言したことを我々はいま経験している。そうそうボブ・ディラン。ここのブログタイトルは彼の曲「watching the river flow」から拝借している。

本格的な曲がり角はネットと携帯電話が普及してからという気がする。物を売ることで成り立っていたあらゆる業種崩壊が始まり、次には情報に金銭価値を付与していた企業が致命傷を受けることになった。考えてみて欲しい。つい20数年前、私たちは時間や天気を知るにも、117や177で電電公社に金を払っていたではないか。今ではそれらどころかあらゆるニュースや情報も無料で手に入る時代に生き、情報を売りにかつては花形産業であった新聞社や出版社が存続の危機にさらされている。それに、何よりもネットは不正やまやかしのベールをはがした。企業が勝手につけた価値(value)が実はそれほどではないことを露呈した。世界はすさまじい勢いで変化を続けている。そういう意味でインターネット革命は18世紀の産業革命よりはるかに巨大な変革であった。利便性の代償として人は貧しくなる。何と大きな代償であったことか。

だが、私はこうも思っている。物を売り、お金が豊かになると幸福になれると信じて頂きを目指した日本人はバブルのあの時代、モノやカネでは幸福にはなれないのだということを知った。その頂きで呆然となった。限りある命を生きる人間はそういうことでは幸福にはなれないのだということを最初に知ってしまった人種ではなかろうかと。今、新興国はかつての日本の行った道をたどる。たぶん彼らもまた彼らの頂きにおいて、そのことを知るに違いない。

かつては富の象徴であったロレックス。だがもう違う気がする。バブルのあの時代とはあらゆるものが変わったのだ。最も優れた種は「変化に対応する種」だと言う。たぶん、我々もまた変わらなければならない。もう我々が生きている間に、日本経済が復活することはないかもしれない。だが、そんなことは関係ない。結局最後は個人の問題であり、個人の戦い。国のせい、社会のせいにして不満を書き並べても意味はない。最後は自分だ。自分の境遇と運命を受け入れ、でも努力の余地はあると信じ、自分のため、家族のため、仲間のため、人のためにと懸命に働き、生きる人の勲章としてのロレックス。ロレックスの位置づけもまた変わったのだ。神田神保町にはそういう人が求める勲章を置いておく。自分自身もまたその渦中にいる人間からの、「お互いがんばろう!」のメッセージとして私は良質な個体を集め、誰かの代人としてそれを手渡したいと思っている。「お互いこれからもがんばろう」と。それが、私が始めたことの最大の意味であり意義である。
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Author:オイパペ
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