忘れ得ぬ写真

忘れ得ぬ写真がある。それは海外のサイトで、もう思い出せないし辿れないのだが、その写真は鮮やかに我が記憶に残っている。南国のリゾートっぽい場所のバルコニーだろうか、手前にはテーブルがあり、その向こうには海が、さらにその向こうには茜色した夕焼け空が広がっている。テーブルの上にはブルーハワイのような色をしたカクテルが2つ、その横にシードゥエラーが竜頭を上にして無造作に置かれている。頭の中でチャックスフィールドの「引き潮」のメロディが勝手に流れるようなきれいな写真だった。

私はその写真で想像をたくましくした。彼は日々を忙しく働く真面目な男だ。毎日がんばって働いている。ホワイトカラーかもしれないし、ブルーカラーワーカーかもしれないが、そんなことはどちらでもよい。多忙な日々における彼の相棒はあの写真の傷だらけのシードゥエラーだ。そんな彼が家族なのか恋人なのか、ともかく愛する人とともにつかの間の夏のバカンスを楽しんでいる。滞在型の長期バカンス。場所は地中海のマルセイユだろうか、マルタ島かもしれないし、ハワイやフィジーあたりかもしれない。それもまあどこでも良い。大事なことは、彼がまじめな労働者であり、やっと訪れた場所で昼から旨い酒を飲んで酔っ払い、そして奇跡的なぐらいにきれいな夕焼けに遭遇し、すべての景色がオレンジ色に染まる荘厳な景色の中で、そばには愛する人、そして共に長い時間を過ごしてきた相棒(=シード)がいることだ。すべてはとってもシンプルなことだが、どれも人生において簡単に手に入るものではない。もちろんこれは私のイメージでしかないが、このイメージが私にはなぜか強烈なのだ。飛行機が大の苦手な私の憧憬なのかもしれない。

前回の記事で、欲望にだけ任せた時計趣味は飽きると書いた。そして時計にも道があるのではないかと多少堅苦しく大げさにも書いた。実のところ、茶器の話などはヴィンテージの世界にそっくりである。独自の環境において、独自の経年変化を遂げたヴィンテージ時計は世界にふたつとないモノとして私たちの前に現れる。それに対峙したときに私たちは自らの感性が問われる。私たちもまた世界にふたつとない存在として。時計を長く続ける人が最終的にはヴィンテージという方向に向かうことはすごく良くわかるのだ。

時計が富の象徴であることもわかりやすい。それで良いと思う。原始の時代に人が獰猛な動物を倒した象徴としてその牙や骨をアクセサリーにしてジャラジャラ首からぶら下げているのと同じこと。下品だと思う人もいるだろうが、世界は残酷であり、不公平であり、そしてリアルである。金持ちもいれば貧乏な人もいて、金持ちはいい家に住み、銀行にはたくさんの貯金があるのだろう。それが現実。その金の使い道として高級な時計を買うことが悪いことでは決してない。それらを否定すれば資本主義社会も競争社会も成り立たず、最後は僧籍にでも入るしかない。平等社会など嘘である。50年も生きてみろ、人生がどれだけ不平等かわかる(笑)。不平等だからこそ、一生懸命働き、少しでも多くの金を稼ぐことが悪かろうわけがないし、その金を遣わずに貯金しようが、車や時計、旅行に遣おうが結局は同じことだ。だが、それらを踏まえた上で、私はただ欲にまかせてモノを買い漁ることは虚しいと感じて、前回の記事を書いた。それは時計の処し方というよりは、生き方として書いたつもりである。

冒頭の写真は、おそらくは実現することのない私の憧れの心象風景なのだろう。前回私は「65ぐらいで一線を引く人生設計を持っているのだが、少なくともその間は時計を愛好する日々を送りたいと思っている。」と書いたが、書き終えた翌日にこれは違うと感じた。正確に書く。私はいつか時計は一本にしたい。その一本への道を往きたいと思う。それまでは迷走するだろう。散財もするに違いない。一本への道も道だが、それがゴールではなく、そのまた先の人生はその一本とともに往きたい。今はまだ妄想で良い。その道の中継地点にあの黄金色に染まった写真の風景がある。

前にこのブログで軽く告知したが、近々時計ビジネスをスタートさせる。本業があるのであくまで緩く。まだ準備に少し時間がかかるが用意が出来たらここでお知らせする予定である。それもまた私が考えた道といえば道のひとつ。週末は仕事で札幌へ。飛行機がダメなので当然、電車で行く。私には黄金色の風景はいろいろな意味で遠い(ハハハ)。今日はこの辺りで。
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時計は飽きる

趣味は飽きる。冒頭から思い切って書くが、人間は飽きる生き物である。

「好き」の反対語は普通は「嫌い」である。好き⇔嫌い。だが、実は好きの反対は嫌いではなく、「飽きる」ではないかと私は思っている。マザーテレサが言った「愛の反対語は憎しみではなく、無関心です」に近いかもしれない。要するに関心が薄れるのである。人は、人に飽き、仕事に飽き、環境に飽き、あれほど情熱を燃やした異性や趣味にすら飽きる。

従って、当然ながら時計にも飽きる。

いや、時計は特に飽きる。大量生産の工業製品を買うだけの趣味である。ただ金を払って買うだけ。それも結構高い。私を含め多くの人にとっての高級ブランド時計とは自分の虚栄心を満たしてくれるものだから、次はサブ、次はデイトナ、次は金無垢、次は雲上…。ややもするとあれも欲しい、これも欲しいとなり、結局は金が尽きるのが先か、虚しくなって興味が尽きるのが先かの違いだけで、数年かそこらで離れていく人が多い気がする。時計のマーケットとはある時期にそういう麻疹(はしか)に罹ったような人を相手に回ってきた業界なのかもしれない。

同じ趣味でも、釣りやバイク、ダンスのように続けることによって技量が上がるわけでもなく、オーディオのようにクォリティーが向上するわけでもない。料理のような個人の創意工夫もない。鉄道オタクのてっちゃんが吹雪に耐え震えながら、通り過ぎていく列車に向けてカメラを構えるほどの努力や忍耐もない。つまり時計は行くべき道がないと言えばいいだろうか。お金を払って買えば一旦ゴール。その繰り返し。自己満足と虚栄を満たすだけだけで続けていれば、数年で飽きてしまうことがむしろ自然だともいえる。私もかつてその壁にぶつかった。要するに冷めた。もちろん、たかが個人の趣味、そうなればなったで、時計から離れて他に好きなことをまた見つければよい。広い世の中には他にも楽しいことはまだまだ他にもたくさんある。すべては個人の自由。

だが、一方で私はその感情に抵抗したい気持ちも持った。このブログを続けたのもそれである。せっかくこんなに好きになった趣味が、嫌になるならまだしも、飽きるというのは何とも悔しい。意地といっても良い。一体どれだけの時間と情熱を時計にかけてきたことか。決して大げさではなく、毎日、仕事以外の時間の多くを時計に割いてきた。それが結局のところはその程度のことだったのかと思うとやはり悔しかったのだ。50を過ぎると否応なく人生には限りがあることを知り、漫然と飽きることは敗北でもあるなあと思う。前々回、「自分のスタイルを持つと時計はもっと楽しい」と書いた。自分の心を、人生をも豊かにしてくれる、もっと違う時計との向き合い方があるのではないか、それを探していくことが今の自分の課題でもある。

もう少し続ける。仕事だろうと趣味だろうと人間関係だろうと、努力によってそれを黙々と続けてきた者にはまずかなわない。例えばひとつのことを続けてきた職人がいるとする。いや趣味でも良い。それが何であろうとも、その中身に共感はできなくても、続けてきた人にはある種の威厳があるが、それは掘り下げるならば、単に自分の虚栄や欲望のためにやっていないからだという気がしてならない。あえて言葉にすればそれはやはり「道」なのだと思う。仕事だけではない、夫婦関係だって、趣味のカメラだって、釣りだって、読書や映画だって、鉄道趣味、望遠鏡で星を眺めること、バイク…、みんなそうであろう。たかが趣味であろうとも、往くべき道というのはあり、時計にだってそれはあるのではないか。

戦国乱世に茶器が大流行したことを歴史好きな人はご存じであろう。初花肩衝、平蜘蛛、三日月茶壷…。手作りの茶器は世界にふたつとない。明日の生死も定かではない弱肉強食の戦国乱世。地球が丸いことも、生が遺伝子によって生かされていることも知らない無明の世界に産み落とされた彼らは一場の夢をそこに見た。下らないと笑うのは簡単である。茶器はお茶を飲む、たかが「道具」であったし、これもまた俗世では褒美や財力の象徴だった。まるで我々が大好きな何かとそっくりである。だが、そこに意味を与える者がいて道ができ、茶道というものが生まれている。

ただ暴れる者は単なる暴力者であるが、武に行くべき道があれば武道となり、剣にもまた道があり、柔の道もある。日本人はそうやって己の行くべき道を歩んできたのではないか。職人には職人の、商人には商人の道がある。料理にもお茶にも。夫婦にも師弟にも。50年連れ添って仲が良い夫婦など称賛ものである(大変だっただろうなー)。続ける者が続ける限り、そこには道が出来ると信じたい。歩ませているのは決して「欲望」などではなく、人間の意志ではないかと、少し偉そうに書いておく。それこそが欲望でしか生きられない他の生物と人間を隔てているものに他ならない。欲望の向こう側は人間にしか行けない場所。そんな道が平坦であるわけがない。

せっかく好きになった趣味だ。長く続けたいではないか。時計を買うことがゴールではなく、それをスタートとする向き合い方。私は65ぐらいで一線を引く人生設計を持っているのだが、少なくともその間は時計を愛好する日々を送りたいと思っている。あっ、後もう10年ちょっとしかない(笑)。いやいや、まだ10年もあると思うことにしよう。

さっきの茶の湯のオマケ。戦場で手柄を立てた戦国武将の滝川一益は、褒美として主人織田信長に珠光小茄子という茶器を所望した。ところがそれは叶わず、代わりに上野一国を与えられ大変落胆したという。一国一城より茶器。ハハハ。私はこの話が好きだ。また、城を攻められて自害する際に、これを奪われるぐらいならと自慢の古天明平蜘蛛に火薬を詰め、それを抱え込んで自爆した松永久秀という武将もいる。ちなみにこの久秀、ゲームの戦国BASARAでは倒すとやはり自爆する(笑)。人間の心というものは本当に面白い。

中野のヴィンテージ2つの話題

先週は中野へ。さすがに平日の夕方なのでどこも空いていた。軽くレポート。

まずジャックさんに置いてあった古いサブマリーナ5513。ご覧あれ。→ここ。スーパーファット(極太)フォント、kissing 4。4が0にチューしているのがおわかりだろうか。3の背中のくぼみがとても小さく、遠目にはストレートに見えるのも特徴のひとつ。ベゼルだけで30万円ぐらいの価値がありそうである。時計は77年製とのことだが、この年代のサブにマーク1ベゼルが装着されていることが正しいのかどうかは知らない。私はこのベゼルだけ欲しい、出来れば12万円ぐらいで(笑)。古いサブのベゼルには他にもskinny 4という、異常にやせ細った4のベゼルがあって、こちらも高価である。ちなみにマーケ2がロング5。写真アップは面倒なので興味がある人はググっていただきたい。マニアックな話題。

その5513とは対極的と言っても良い、ひじょうにきれいな私好みの赤サブがかめ吉さんにあった。→これ。インデックスも針もほぼ白。文字盤もきれいでケースもぶっとい。もしかしたらケース交換されているかも?というぐらいにラグのエッジが立っている。オープン6のマーク3ダイヤルで、値段も赤サブにしてはやや安い130万円台。ガラス越しにシゲシゲと眺めた。惜しむらくは、ブレスが後付けの溝有りハードブレス。巻きブレス好きとしてはそこがやや残念。ここを見て買う人はいないだろうが、一応忠告をしておくと、もしケース6時位置に刻印されているシリアルが44、又は47から始まる6桁だとケースが交換されている。オリジナルにこだわる人は要注意。ただ、この時計はブレスだけではなく、ベゼルも後付けであるよ。それにしても、たったこれだけのweb上の情報で100数十万出して買えないのでは?と思ってしまう。遠方の人にとって、もう少し優しいセールスを考えてもらいたいものである。時計は直接見て、手に取って買うのが基本なのはわかるが、そうもいかない人もいるわけで。

別の店でだが、カマボコ(チュードル79160)の文字盤がテカテカのミラー調とマットの2種が並べて展示されており、初めて見比べることが出来たのが、これもまたマニアックな収穫であった。そうそう、新型デイトナの現物も見た。ブラックだが、もうギラギラである。多くの人同様、私もネットの写真では白が良く見えるのだが、実物の黒は意外にも非常に格好良かった。それと、つい先ごろまで150オーバーだったディープの青は130万円強まで下がっていた。

総体的にはまだ価格は高値安定といったところだろうか。客数はまばら。外国人は少なかったかと。見たかった新型エクワンはどこにも在庫なし。以上、中野レポート。
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