人類の進歩と調和

私の幼少期というのは日進月歩で世の中が発展した時代で、その幼い頃の記憶にまだ豊かになる前の日本の風景をとどめている。例えば私の幼稚園から小学校低学年までの時期、私は何度も三輪のトラックやバスを目撃したし、道路などはメインストリート以外はまだ舗装もされていなかった。クーラーなどもなく、テレビもまだ白黒テレビ時代だ。ちなみに私は1960年代前半の生まれ。漫画『20世紀少年』の主人公たちが私より2つばかり上の世代と思われる。

当時の科学技術の進歩は目覚ましく、小学館から発行されていた「小学シリーズ」や学研「科学と学習」では、20~30年後の世界として、空飛ぶ自動車や人類が火星に旅行に行っているイラストなどが頻繁に紹介され、当時はまだ純真無垢だった私は、大人になったらきっとそういう時代が来るのだと思っていた。何より決定的だったのは1970年「人類の進歩と調和」を謳い大阪で開催された「万国博覧会」。アポロが持ち帰った月の石は、まだ決して豊かではない時代を生きていた少年時代の私に限りない未来を感じされたものだ。少なくとも私の周辺の世代は「輝く未来」を何の曇りもなく信じた。

1969年、人類は月に降り立った。そう今日はオメガ・スピードマスターについて書く。ライバルであったロレックスデイトナを蹴散らし、NASA公認の「ムーンウォッチ」の称号を得たスペシャルウォッチ。1960年代合衆国が打ち上げたアポロ計画。飛行士が着用するための時計として競争したのは、オメガ、ロレックス、ロンジン。何度やっても破損する2社を尻目にオメガは最強ウォッチの開発に成功する。21世紀の今、オメガはロレックスの後塵を拝しているが、1960年代のオメガは少なくともロレックスの風下に立つブランドではなかった。

マーキュリー計画の後、船外活動を予定するジェミニ計画と、最終的には月面歩行を目指すアポロ計画では、宇宙空間に出ても飛行士たちが使える時計が必要だった。1964年にNASAから発行された見積もり依頼の時計メーカーは以下。エルジン、ロレックス、ロンジン、ハミルトン、オメガ、ミドー、ベンラス、ルシャン・ピカール、ブローバ、グリュエン。最終的には、オメガ、ロレックス、ロンジンの3社がテストに選ばれる。宇宙空間では100度を超える寒暖の差がある。それ以外にも、気圧、湿度、酸素、加速、衝撃、振動、減圧など、宇宙空間における様々にして過酷な環境テストが始まる。ロレックスは早々に脱落。湿度テストで時計が止まり、高温テストでは針がゆがんで他の針に干渉してしまったという。その段階で次のステップに進むことはなく、ロンジンもまた高圧テスト中に風防破損、ロレックスと同じくクロノ針がゆがんでしまう。全項目のテストをクリアし、NASAから正式な採用通知を受領した時計は、オメガ・スピードマスターだけ。1965年のこと。これ以上の栄誉はあるまい。デイトナの冠にコスモ(宇宙)を配していたロレックスは、デイトナを早々にレーシング用時計へと、そのコンセプトを変更せざるを得なかったのだ。コスモグラフ・デイトナ。その名称には少し苦い敗北の傷跡がある。だが、その敗北はロレックスの糧になった。彼らはどんどんと進化を目指した。潜水士、飛行士、冒険者をはじめ、時計に様々なコンセプトを付与し、優れたデザインと性能で他社を圧倒していく。逆に、その栄光がオメガの足を引っ張ったと言えなくもない。「ムーンウォッチ(月へ行った時計)」、その栄誉があまりにも大きかったために、半世紀経った今もオメガ社はそこから脱却できず(あえてせず)、コンセプトもそうだが、何より良くも悪くも基本のデザインイメージをずっと同じまま踏襲し続けているのだ。

だが、私は思う。私のように子どもの頃に夜空を見上げて、宇宙に果てしない夢を持っていた者にとっては、やはりスピマスには夢がある。月へ降り立った勇敢な宇宙飛行士の腕で時を刻んだ時計。おそらく「時間」という概念は様々な解釈が可能だろうが、それが宇宙の営みと連動していることは間違いない。まだその100万分の1すら解明されていない広大な宇宙の中の太陽系。そこで営まれる地球の自転や公転、月の満ち欠けなどが、1日、1年、1月という「時」の単位を決している。

時計好きとして一本は所有してみようと思い立ち、少し前に古い60年代のものを入手した。ゴツくてずっしり重い。ロレックスにはどこか中性的な美を感じさせるところがあるが、スピマスはまさにman's man's watch 。男の中の男の時計だ。クロノグラフ&手巻き仕様にプラ風防。ベゼル、文字盤、インダイヤルはすべてブラック。漆黒のブラック。完成されたデザイン。これほどまでに精悍なデザインの時計はない。何と格好いい時計であろうか。何本も持つ必要はないが、一本は持っておいてよい。いや、時計を1本しか持たないなら何もスピードマスターでなくても良いが、複数持つならやはり1本は持っているべきだと今の私は所有してみてそう思っている。

1972年のアポロ17号を最後に人類は月の上を歩いてはいない。何だか夢がなくなってしまった今の世界。「進歩と調和」どころか人々は争ってばかり。いつしか少年は初老になり、空を飛ぶどころか、今も排気ガスを出す車で渋滞する夕暮れの街を歩きながら、そうそれは先日のこと、ふと東の空を見上げると、立ち並ぶビル群の遥か上にぽっかりと浮かぶきれいなお月様が。薄い雲や宵闇の星々とともに眺める月のきれいなこと。そして不可思議なこと。「あんなに遠くへ行ったのか…」、人間ってすごいなあと思った。スピードマスター。いつか人はもっと遠くへ行くのだろうか。それともこの数十年がそうであったようにいつまでもこの地にとどまり続けるのだろうか。人々が込めた思い。ムーンウォッチ。何ていい響きだろう。スピードマスターとはそんな時計だ。

さて、書き続けるとキリがないので、今日はここまで。次回、簡単にスピードマスターの歴史を書く予定。残念ながら神田神保町にスピマスは一本もないので悪しからず。これからがんばって仕入れたいとは思うのだが…。

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言い訳

年が明けてから、別の仕事で私のミスというか遅延で結構な数の人に迷惑をかけてしまい、ブログを更新する時間も余裕もなく今日まで来てしまった。店にもほとんど顔を出しておらず、店長さんに任せっぱなし、先週久々に顔を出したらずいぶんたくさん時計があってちょっとびっくり&うれしかったりもした。たまには更新しないとトップに変な広告が出てくるので、今日は没予定だった過去の原稿をアップ。去年の今ぐらいの時期に下書きした原稿である。最初に前置きしておくが、大した内容ではない。

時計を買う際、多くの人は自らに対してなにがしかの言い訳をするものだが、それらは本当に面白い。4~5万円の買い物だって安くはないのに数十万、時には百数十万円ともなると人はそれなりのエクスキューズを必要とするようだ。まだこのブログにコメント欄があった頃はよく「極上のGMTを見つけました。ギャラも付属品もバッチリ付いていて本体も極上の58万円です。オイパペさん、どうでしょうか?買いでしょうか。オイパペさんのような方に背中を押していただきたいのです」などというコメントを貰ったものだが、もうご本人はプールサイドで飛び込みの姿勢でいるようなものである。どうでしょうか?などと質問しながら、すでに前傾した身体の背中が「押して!早く押して!」と言っていて、手で押さなくても、尻にフッと息を吹きかけるだけで、勢いよくバッシャ~ンとプールに飛び込むようなもの。まあお勧めすることもあったし、正直にやめたらどうですかと返したこともある。

「言い訳」に話を戻すと、私もまた同じである。私もまたいつも自分への言い訳を必要としている。

よく見聞きする言い訳そのいち。「将来、息子にゆずる」。出た。これは美しい言い訳なのだが、実行できなかったときは実に見苦しい言い訳となる。だから安易には使わないほうが良い。大きなお世話だが、これの実施率、実行率はかなり低いと私は見ている。仮に子どもが乳幼児の場合、実施時期は成人を記念するなら15~20年後。2年も経たずに手放すロレ病患者には苦行のような長い長い歳月である。西暦2036年にそれを実行できれば立派だが、私にはその自信は到底ない(実は私も白の34mm径エアキングを将来娘に譲ると心で誓って、数か月後にあっさり売却してしまった痛い過去がある)。それに子どもがそれを喜ぶかどうかも極めて怪しいし、親の価値観の押し付けもよくない。20年後には時計など誰も身に着けない時代にだってなっているかもしれない。とは言え、実行できれば立派なことではある。

次。「がんばった自分へのご褒美」。基本的にこれは女性がよく使う言葉である。女性がちょっと贅沢な海外旅行やブランド品を買うときによく使う言葉。広告代理店はそれをよくわかっていて、旅行会社の宣伝キャッチコピーでしばしば目にする。「がんばった自分へのご褒美に今年の夏はバリ島で!」。これもまあわかるのだが、男ならがんばった自分へのご褒美はその日の一杯の酒ぐらいで済ませておこうではないか。「よくがんばったぜ自分、立派だったぜ自分、乾杯!!」と。さすがにサブマリーナはちょっと褒美が過ぎる。がんばった自分へのご褒美に80万円のロレックスを買いたいと女房に言ったら、全人類の98%ぐらいのおとっつあんはぶん殴られるか、最低でも罵声を浴びるはずである。だが、もし、「いいじゃない!あなた、がんばったんだもの。大賛成よ!」などと言ってくれる稀有な女房がいるうらやま男はどんどん自分へのご褒美としてロレックスを買い給え。遠慮することはない。多分、貴殿は神に選ばれた男だ、行先はもちろん東京の神田神保町であることは言うまでもない。大歓迎である。

次。「ビビッときた」。ハハハ。わかる、わかる。だが、これはもはや言語や思考の放棄である。冷静な判断、理性、踏みとどまり、我慢などのあらゆる人間的で高邁な精神の敗北とも言える。ビビッときて歯科医と結婚した聖子ちゃんもすぐに離婚したではないか。ちなみに彼女は「生まれ変わったら一緒になろうね」とも言った。怖ろしい言葉である。ひろみGOは震え上がったに違いない。私だったら別れた女がそんなことを言ったら、恐怖で髪の毛が逆立つだろう。「ビビッときた」は聖子ちゃん病と私は名付ける。他にも「時計が自分を呼んだ」というのも聞いたことがある。「ショーケースの中のサブが俺を呼んだんだよー」。呼んでない(笑)。呼んでませんよ、絶対。ただのメカ。機械。時計。道具。

夜中に独りで笑ってしまった。自分でブログを書きながらゲラゲラ笑っているのだからおめでたい男である。では私はどうかと言うと、私もまたたくさんのしょうもないエクスキューズをひねり出してきたが、最もひどいのは「人生には限りがあるのだから」というやつ。「人生には限りがあるのだから、今こそサブマリーナ!」。人生に限りがあることは事実であり、確かな真実である。だから、たくさん本を読むとか、人との出会いは大切にするとか、一日一日を無駄に過ごさないとか、そういう方向に行けばいいものを、なぜかロレックス。また少々似ているのだが、「自分はもう50だ、きっと60代になったら時計の売り買いをしても楽しめる人生ではないだろう。だったら今買ってしまおう」という言い訳も所有している。ご想像の通り、多分私は60になったら、「きっと70代になったら時計を楽しめる人生ではないだろう、だから~」と言い訳するに違いない。

結論めいたことを書くならば、欲しい、買う。もうこれしかない。それはそれなりの十字架なのだ。あとは背負って生きていくしかない。その十字架を下ろしても、人生にはまた別の十字架がある。名誉欲、出世欲、その他への物欲、性欲、すべての煩悩を避けるのなら坊主になるしかないのが人の世だ。そもそも我々は他の命を食らって生きている。大切なのは言い訳ではなくそれを背負って生きることではないかと、最後はやや抹香臭いことを書いておく。

「人生には限りがあるのだから、今このサブマリーナを思い切って買うぜ!」。これ、実はそれほど間違っていないのではないかと思っている。だが、ロレックスは特大の欲望だから、その代わり他のことで特大級にがんばらないと駄目だ。がんばったご褒美にロレックスとは真逆。がんばったからロレックスではなく、ロレックスを買ったからがんばるのだ。似て非なるもの、私にはこの方がスッキリする。
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