新しい扉の向こう側

私の胸中にはロレックスという若い頃にあれだけ忌避していた高級ブランドを愛好することに対する強い嫌悪感がある。なぜわざわざ40代(当時)になって、そのブランドに魅かれるようになったのか、何度も書いてきたが、その言葉にし難い曖昧な自分の心の有り様を解き明かしていくために私はこのブログを始めた。だが私はかなり早い段階でその答えに思い至っていたことをここに告白しておく。少なくとも私にとっては実にしょうもないものであり、違う意味を見い出したくて思考を重ねてはみたものの、心中にあるものはやはり実にシンプルな何かであった。おそらくは皆さんと一緒だ。

我々は自分ではコントロールしがたい様々な欲望や自尊心に縛られている。人より多少は自由に金を遣える立場であったり金銭的余裕があることであったり、書いていて唾棄すべきようなことだが、それを否定したり、見て見ぬふりをしたら、もうすべてが嘘くさくなる。私の中にもそういうものは巣食っている。私は何か月も前にそのことは認めざるを得なかった。それなりの金があって(大した額じゃないが、それでも若き頃に比べたら大違い)、ロレックスを購入&所有することでそれを自己確認している。そこには自儘な陶酔や優越感や自己満足があることは認めなければならないし、たぶん私はもうそこから自由になることはできない。

大げさと思われてしまうだろうが、敗北感や裏切りにすら近い感覚を伴っての決意として、私はそれを自分に許そうと思った。だが、それならば100万円もの金をかける自己表現と満足のこの時計は本当に愛すべきものでなければならないとも思ったのだ。本当に好きな時計なのであれば、私は下らない心の有り様も全部ひっくるめて受け入れていこうと。うまく書けてはいないが、私は何か月か前に心からそう思うようになった。

本当に心から自分が愛する時計…。そこにどんないびつな自己愛や自己満足があろうとも、そこは極めてやろうと。暴走する欲望を抱えたまま、その欲望の向こう側に突き抜けてやろうという思い。もはや苦行僧の如し。

実は大して好きでもないのに、もっと変な観念に縛られてで何十万、場合によっては百万円もの時計を依存的に買い漁ったり、無駄に複数所有したりすることはやめにしようと思い、私は本当に自分が愛することのできる時計を求めたいと思った。観念としての時計から、リアルな時計へ。本質に迫ること。不要な観念を取り除いていくこと。ロレックスにはとても多くの曖昧な観念が、大きな市場を形成していることに気付く。FLAT4だ、マーク1だ、最終シリアルだ、200タキだ、リセールヴァリューだ、そういうものと向き合い続けた自分がいる。それらをすべて否定するのではなく、自分は何を求めるのか。

エルプリデイトナのPやAがどうだというのもまたそうである。これは最終かそれに近い時計であるということを示す記号でしかなく、ロレックスというリアルな時計の本質からは遠い。GMTマスターⅡ16710のMも然り。エルプリというムーブメントも私にとっては観念でしかない。見たことも触ったことも、そもそもその優劣を実感したことさえないし、ゼニスという会社の歴史についてもよく知らない。誰かに「ゼニス社のエルプリメロ搭載の貴重なデイトナ」と言われれば、何だかそれらしく思えてくるが、突きつめれば実体のない観念でしかない。 もう一度書くがそれらをすべて否定しているのではない。それらが本当に自分にとって価値あるものなのかどうか。

私は価格コムの掲示板で「正規店に電話しまくってもデイトナが買えない」と嘆く人の気持ちがさっぱりわからなかった。欲しいのなら、ちょっと追い金出して並行店でさっさと買えばいいではないかと。ジャックロードに行けば、ずらっと並んでいる。並行品のギャラだって記載の日付から2年間は有効なのだ。どこで買ってもデイトナはデイトナである。だが、考えてみるとこれもまた形こそ違えども、時計の本質とは遠い観念の世界ではないか。せっかく高い金を出して憧れのロレックスを買うのだから、きちんと正規店でアメックスあたりをさっと切って颯爽と買って、ハレとケでいうところの“非日常”を体験したいとか、マイネームギャラにこだわりたいのだとか、そういうことなのだろうと。

ロレックスはやっかいである。人のこころを鏡のごとく映し出す。だが本来時計はあくまでリアルな時計なのに、観念でしか捉えられないなんて、あくまで個人的感覚として(そして自分自身の問題として)、下らないと心底思った、割と最近。 観念で女に惚れるようなものだ。

本当に好きな時計…。それを探す旅がここ数か月のヴィンテージだったということ。始まりは以前アップしたエクスプローラーについての記事。当時は調べていけば行くほどに私はこのブランドに本気で魅かれていった。レーサーや登山者、冒険者、深海の潜水士など、それこそ命をかけて何かに挑む男のための時計というコンセプトを精神的支柱においたロレックスだ。第二次世界大戦のあと、豊かさに向かって先進国が懸命に進んでいった時代や当時の人々とともに歩んだこの時計を私は愛した。私もそうありたいと思って生き、働いた自負が少しはあるから。ロレックスは頂きを目指す男のための時計。私のヴィンテージロレックスへの憧れは、こういう思いが下敷きとなっていたことを書いておく。 このエクワンや前のデイトナ(エルプリ)、そして古いサブの記事を書き連らねていくうちに、そのヴィンテージの世界にこそ自分が本当に好きな時計があるかもしれないと思った。

だが、古き良き時代のロレックスに少年のような純粋な気持ちで憧れながらも、ショウケースに並ぶ現実の古びれた時計に抵抗感を抱く私はまたしても悟ってしまったのだ。ああ、ヴィンテージもまた(私にとっては)観念であったかと。ふりだしに戻されたような気持ちになった。確かに一旦は。

だがそうではなかった。冒頭に書いた虚飾を正面から認めたことと、おそらくはヴィンテージをくぐったことで、私の中の何かが変わったのだと思う。大した時間はかからずに答えは簡単に出たのだ。私が本当に求めるもの。実にシンプルなこと。デザインしかない。どう突き詰めてもデザイン上の好き嫌いしか私にはない。4桁も5桁も関係ない。そして時計はきれいなほうが好ましい。この2つだけ。シンプルであった。ふりだしに戻ったようで、実は戻っていない。この3年間、私はこのブログに長々と書き連ねてきた思考があり、惑いに惑ったがその上での極めてシンプルな結論だ。性能もスペックも関係ない。 「新しい扉」の記事で書いたのはそういうことであった。

前回書いたように。2本を手放した。最初の一本は今回書いた自分の気持ちに素直に従ってのことである。憑き物が取れたかのようにあっさりと決意し、懇意にさせていただいているお店に引き取ってもらった。そしてもう一本はひょんなことから友人とトレードした。手放した時計については、ある自分の決め事に従い、具体的なモデル名は伏せさせていただく。引き取ってもらったお店の都合もあるし、これから買う人もいるわけで、少しの気遣いぐらいはすべきという思いと、それ以上にそこまで晒す必要もあまり感じなくなったので。友人とトレードして得たのは1973年製赤サブ1680である。記事を読んだ古い友人からのメールがきっかけであった。ちなみに私の実生活における人間関係で4名ほどがこのブログの存在を知っている。その内のひとりである彼から「たぶんおまえが望むヴィンテージロレを持っているが見に来る?」のメールが来たのは、ちょうどリリースする時計をお店に送って金額の提示をもらった日の夜で、翌日曜日、手土産の「百年の孤独」をぶら下げて彼の自宅へ。たくさんのコレクションの中から彼が取り出したサブマリーナデイト1680。そう、まさにこういう時計。 ビンゴである。

1973年製1680の文字盤はざらっとややグレーがかってひび割れもなく美しく、そこにダイレクトに赤く印字されたマーク5。トリチウムインデックスは焼けが少ないオフホワイト。針はやや焼けと錆びはあるものの、文字盤とのバランスは保たれており、ルミナスもやはり光らないトリチウム。そしてマーク3のオリジナルベゼル&9315の巻きブレス。41年前のオリジナルを奇跡的に保った逸品であったが、ギャラは無く、ケースも裏蓋も傷だらけ、ブレスは伸びまくりである。

譲ってもいいよという言葉の後に提示された価格は実勢の7掛けぐらいであろうか、いくら彼が何十個もの時計を所有するリッチなコレクターだからといってこんな値段でゆずって貰うわけにはいかない。市中価格で購入させてもらうか、あるいはとも思い、私の所有とのトレードを申し出た。「ああ、いいね、それ。で何持っていたっけ?」

旧エクワン114270だけは断った。島流しに遭った時に持っていくことに決めているので、この時計だけは手放せないし、そもそも安すぎて価格が釣り合わない。スマホに収めてある他の時計たちの写真を見せると、まあたぶんこれだろうという時計を。ああいいよ、いいよと。貴重なブツが消えることになるが、こういうことは躊躇したら駄目。行くときゃ行け!今回は頭の中にあの警報は鳴っていない。2時間後に持って来るよと。早い早い。彼の気持ちが変わらないうちに。私の気持ちが変わらないうちに。 お互い追い金なしの物々交換。

1680。文字盤と針の焼けは薄く、表面の状態は文句なしだが、前述のようにケースは傷だらけでブレスは伸びまくり。ブレスを外し、裏蓋も外すと、そこはもう錆びだらけ。好きなデザインはともかく、きれいなほうが好ましいのでは?いや、これで良い。実は理想的だった。オールニューするから。自分がたどり着いた結論に従えばそうなる。これが私の自分への証明であった。赤いラインだけは交換が効かないので、ここだけはキープ。あとはすべて新しくする。 オリジナルへのこだわり?ない、ない。私にはない。

翌々日、私は珍しく早起きして仕事前にロレックスに持ち込み、顔(文字盤・ベゼル・針)以外、すべてのオールニューを依頼した。文字盤が強制交換ならば、グダグダごねずに別の手段を使おうと決めていた。経緯については書くのが面倒なので端折って書く。顔についてはすべて交換無し。ただし作業中の不具合次第で有償交換という条件を飲んだ。ここは日本ロレックスサービスの腕を信じるしかない。

閑話休題。日本ロレックスでのOHについて。私は古いデイトナを知り合いの代理でOHに出したことがある。そのことも下書きにはあるがまだアップしていないのだが、そのときのやり取りでいろいろと感じたこと、経験したことがある。彼らには彼らの厳然たるルール(決め事)があるのは確か。だが彼らはこちらの話は真摯に聞いてくれる。勿論こちらも真摯に話す必要はあり、それは熱意とかそういうことではない。彼らが受け付けられないものを出しては勿論駄目であるが、彼らが避けたいのはやはり作業中の事故と、引き渡し後の不具合の発生だと私は思う。トリチウム夜光が飛び散ってムーブに侵入すること、針が折れる、針の錆が他の針に干渉する、はめ込み時にベゼルが割れるなど。デイトナOHの記事はどこかの機会でまた。

さて1680に話を戻す。オールニューはOHが条件とのこと。従って見積もりは通常のOH代金に、ブレス(93150)、ミドルケース、裏蓋、リューズ、プラ風防、クリスタルリング、これらの代金がプラスされトータル費用は30万強(むむむ)。パーツはスイスから取り寄せるので期間は3~4ヶ月とのこと。わずか2日で暫しのお別れ。私なりに長い時間をかけて、ようやく自分なりに到達したひとつの理想的な形を一気に行動に移せたこと、うん、これでいい。思考ばかりを巡らせていてはいけない。

改めて備忘録として。私がロレックスを選ぶ基準はデザインだけである。そして時計は新しく、きれいなほうが好ましい。自分が心から好きな(デザイン)の時計がディスコンならば、それが比較的最近の5桁ものならば最終期のものを、古い時計ならば、全部オールニューで。こだわりの部分は残せば良い。私がこだわるのはfaceだけだ。2本の時計が去り、1680は入院、実は他の手持ちも不具合で入院中なので時計ケースの中がやけに寂しくなった。だがなあ、これでよいのだ。スカスカの時計ケースは、多くのものを削ぎ落とした私の心の何かを象徴しているかのようで、多少寂しくはあるがすがすがしくもある。時計が帰ってくるのは来年。その遠さが妙に心地よい。それが私の新しい扉、そしてその向こう側である。書けた~。
1680入院前
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