アンティークロレックス

アンティークロレックス。いい響きである。あの枯れた独特に味わいとともに、私のように希少好きにはたまらない魅力がある。いや正確にはあった。赤サブや赤シード、チェ・ゲバラがつけていたというGMTマスター1675など。

だが、幸い今の私はアンティークロレックスにはまってはいない。それには理由がある。

あるときネットで状態もよく、付属品完備が完備されているGMTマスター1675を見つけた。二週間ぐらい悩んだ末に、現金をディーパックに入れて、その店を訪問して見せてもらったのである。それを手に取ったときの感触が、その後の私を決定付けた。それは決して大げさなことではない。あの軽さ、特にブレスのチープさ、ああこれは自分は駄目だと思えたのだった。いくつかある個体すべて、私にとって魅力的には思えなかった。

そこにあるのは、今の堅牢性を有するロレックスとは比べ物にならない進化する前のロレックスであり、私のまったく知らない人とともに時間を共有し、良くも悪くも枯れてくたびれた時計であった。アンティークロレックスを批判しているのではない。むしろ逆である。長い歳月をともに過ごし、そのことが刻まれた時計を持つことができるのは素晴らしいと感じる。自身もまた歳月によって枯れていく存在であるがゆえにだ。あの時、手に取った時計たちに私は愛着を持つことはできないと感じ、そして私がまだそういう時計を持っていないことを、多少の寂しさとともに恥じたのであった。時計というものが人と時を刻むために生み出されたのだとということを、あれらの時計が改めて教えてくれた気がする。

あの時の感覚によって、自分にとっての時計というものが何なのか、どういう意味を持つのかがぼんやりとだが見えてきたのだった。どれだけ人に恵まれ、充実した人生を送ろうとも、人はひとりで生まれ、一人で生き、そしてひとりで死んでいく存在であり、当たり前のことだが人生というものは孤独なものである。そういう意味で、何年も何十年も時間をともに過ごす時計というものは、ただの“モノ”以上の何かではないのか。そんなことを考えたのだった。

買う気満々で店を訪問したため、店主に詫びを入れたあと外へ出て私は大きく息をついたことを覚えている。何かが閉ざされたが、逆に何かが開いた瞬間だった。私はロレックスデビューが遅かったために、だからこそ好きな時計とともに残された時間を今からでも刻みたいと思ったのだった。

下記はちょっとすごいアンティークロレックスマニアたちの集まり。これを見たら傷とかまったく気にならなくなるから不思議。

Passion Meeting 2010

アンティーク3
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