忘れ得ぬ写真

忘れ得ぬ写真がある。それは海外のサイトで、もう思い出せないし辿れないのだが、その写真は鮮やかに我が記憶に残っている。南国のリゾートっぽい場所のバルコニーだろうか、手前にはテーブルがあり、その向こうには海が、さらにその向こうには茜色した夕焼け空が広がっている。テーブルの上にはブルーハワイのような色をしたカクテルが2つ、その横にシードゥエラーが竜頭を上にして無造作に置かれている。頭の中でチャックスフィールドの「引き潮」のメロディが勝手に流れるようなきれいな写真だった。

私はその写真で想像をたくましくした。彼は日々を忙しく働く真面目な男だ。毎日がんばって働いている。ホワイトカラーかもしれないし、ブルーカラーワーカーかもしれないが、そんなことはどちらでもよい。多忙な日々における彼の相棒はあの写真の傷だらけのシードゥエラーだ。そんな彼が家族なのか恋人なのか、ともかく愛する人とともにつかの間の夏のバカンスを楽しんでいる。滞在型の長期バカンス。場所は地中海のマルセイユだろうか、マルタ島かもしれないし、ハワイやフィジーあたりかもしれない。それもまあどこでも良い。大事なことは、彼がまじめな労働者であり、やっと訪れた場所で昼から旨い酒を飲んで酔っ払い、そして奇跡的なぐらいにきれいな夕焼けに遭遇し、すべての景色がオレンジ色に染まる荘厳な景色の中で、そばには愛する人、そして共に長い時間を過ごしてきた相棒(=シード)がいることだ。すべてはとってもシンプルなことだが、どれも人生において簡単に手に入るものではない。もちろんこれは私のイメージでしかないが、このイメージが私にはなぜか強烈なのだ。飛行機が大の苦手な私の憧憬なのかもしれない。

前回の記事で、欲望にだけ任せた時計趣味は飽きると書いた。そして時計にも道があるのではないかと多少堅苦しく大げさにも書いた。実のところ、茶器の話などはヴィンテージの世界にそっくりである。独自の環境において、独自の経年変化を遂げたヴィンテージ時計は世界にふたつとないモノとして私たちの前に現れる。それに対峙したときに私たちは自らの感性が問われる。私たちもまた世界にふたつとない存在として。時計を長く続ける人が最終的にはヴィンテージという方向に向かうことはすごく良くわかるのだ。

時計が富の象徴であることもわかりやすい。それで良いと思う。原始の時代に人が獰猛な動物を倒した象徴としてその牙や骨をアクセサリーにしてジャラジャラ首からぶら下げているのと同じこと。下品だと思う人もいるだろうが、世界は残酷であり、不公平であり、そしてリアルである。金持ちもいれば貧乏な人もいて、金持ちはいい家に住み、銀行にはたくさんの貯金があるのだろう。それが現実。その金の使い道として高級な時計を買うことが悪いことでは決してない。それらを否定すれば資本主義社会も競争社会も成り立たず、最後は僧籍にでも入るしかない。平等社会など嘘である。50年も生きてみろ、人生がどれだけ不平等かわかる(笑)。不平等だからこそ、一生懸命働き、少しでも多くの金を稼ぐことが悪かろうわけがないし、その金を遣わずに貯金しようが、車や時計、旅行に遣おうが結局は同じことだ。だが、それらを踏まえた上で、私はただ欲にまかせてモノを買い漁ることは虚しいと感じて、前回の記事を書いた。それは時計の処し方というよりは、生き方として書いたつもりである。

冒頭の写真は、おそらくは実現することのない私の憧れの心象風景なのだろう。前回私は「65ぐらいで一線を引く人生設計を持っているのだが、少なくともその間は時計を愛好する日々を送りたいと思っている。」と書いたが、書き終えた翌日にこれは違うと感じた。正確に書く。私はいつか時計は一本にしたい。その一本への道を往きたいと思う。それまでは迷走するだろう。散財もするに違いない。一本への道も道だが、それがゴールではなく、そのまた先の人生はその一本とともに往きたい。今はまだ妄想で良い。その道の中継地点にあの黄金色に染まった写真の風景がある。

前にこのブログで軽く告知したが、近々時計ビジネスをスタートさせる。本業があるのであくまで緩く。まだ準備に少し時間がかかるが用意が出来たらここでお知らせする予定である。それもまた私が考えた道といえば道のひとつ。週末は仕事で札幌へ。飛行機がダメなので当然、電車で行く。私には黄金色の風景はいろいろな意味で遠い(ハハハ)。今日はこの辺りで。

時計は飽きる

趣味は飽きる。冒頭から思い切って書くが、人間は飽きる生き物である。

「好き」の反対語は普通は「嫌い」である。好き⇔嫌い。だが、実は好きの反対は嫌いではなく、「飽きる」ではないかと私は思っている。マザーテレサが言った「愛の反対語は憎しみではなく、無関心です」に近いかもしれない。要するに関心が薄れるのである。人は、人に飽き、仕事に飽き、環境に飽き、あれほど情熱を燃やした異性や趣味にすら飽きる。

従って、当然ながら時計にも飽きる。

いや、時計は特に飽きる。大量生産の工業製品を買うだけの趣味である。ただ金を払って買うだけ。それも結構高い。私を含め多くの人にとっての高級ブランド時計とは自分の虚栄心を満たしてくれるものだから、次はサブ、次はデイトナ、次は金無垢、次は雲上…。ややもするとあれも欲しい、これも欲しいとなり、結局は金が尽きるのが先か、虚しくなって興味が尽きるのが先かの違いだけで、数年かそこらで離れていく人が多い気がする。時計のマーケットとはある時期にそういう麻疹(はしか)に罹ったような人を相手に回ってきた業界なのかもしれない。

同じ趣味でも、釣りやバイク、ダンスのように続けることによって技量が上がるわけでもなく、オーディオのようにクォリティーが向上するわけでもない。料理のような個人の創意工夫もない。鉄道オタクのてっちゃんが吹雪に耐え震えながら、通り過ぎていく列車に向けてカメラを構えるほどの努力や忍耐もない。つまり時計は行くべき道がないと言えばいいだろうか。お金を払って買えば一旦ゴール。その繰り返し。自己満足と虚栄を満たすだけだけで続けていれば、数年で飽きてしまうことがむしろ自然だともいえる。私もかつてその壁にぶつかった。要するに冷めた。もちろん、たかが個人の趣味、そうなればなったで、時計から離れて他に好きなことをまた見つければよい。広い世の中には他にも楽しいことはまだまだ他にもたくさんある。すべては個人の自由。

だが、一方で私はその感情に抵抗したい気持ちも持った。このブログを続けたのもそれである。せっかくこんなに好きになった趣味が、嫌になるならまだしも、飽きるというのは何とも悔しい。意地といっても良い。一体どれだけの時間と情熱を時計にかけてきたことか。決して大げさではなく、毎日、仕事以外の時間の多くを時計に割いてきた。それが結局のところはその程度のことだったのかと思うとやはり悔しかったのだ。50を過ぎると否応なく人生には限りがあることを知り、漫然と飽きることは敗北でもあるなあと思う。前々回、「自分のスタイルを持つと時計はもっと楽しい」と書いた。自分の心を、人生をも豊かにしてくれる、もっと違う時計との向き合い方があるのではないか、それを探していくことが今の自分の課題でもある。

もう少し続ける。仕事だろうと趣味だろうと人間関係だろうと、努力によってそれを黙々と続けてきた者にはまずかなわない。例えばひとつのことを続けてきた職人がいるとする。いや趣味でも良い。それが何であろうとも、その中身に共感はできなくても、続けてきた人にはある種の威厳があるが、それは掘り下げるならば、単に自分の虚栄や欲望のためにやっていないからだという気がしてならない。あえて言葉にすればそれはやはり「道」なのだと思う。仕事だけではない、夫婦関係だって、趣味のカメラだって、釣りだって、読書や映画だって、鉄道趣味、望遠鏡で星を眺めること、バイク…、みんなそうであろう。たかが趣味であろうとも、往くべき道というのはあり、時計にだってそれはあるのではないか。

戦国乱世に茶器が大流行したことを歴史好きな人はご存じであろう。初花肩衝、平蜘蛛、三日月茶壷…。手作りの茶器は世界にふたつとない。明日の生死も定かではない弱肉強食の戦国乱世。地球が丸いことも、生が遺伝子によって生かされていることも知らない無明の世界に産み落とされた彼らは一場の夢をそこに見た。下らないと笑うのは簡単である。茶器はお茶を飲む、たかが「道具」であったし、これもまた俗世では褒美や財力の象徴だった。まるで我々が大好きな何かとそっくりである。だが、そこに意味を与える者がいて道ができ、茶道というものが生まれている。

ただ暴れる者は単なる暴力者であるが、武に行くべき道があれば武道となり、剣にもまた道があり、柔の道もある。日本人はそうやって己の行くべき道を歩んできたのではないか。職人には職人の、商人には商人の道がある。料理にもお茶にも。夫婦にも師弟にも。50年連れ添って仲が良い夫婦など称賛ものである(大変だっただろうなー)。続ける者が続ける限り、そこには道が出来ると信じたい。歩ませているのは決して「欲望」などではなく、人間の意志ではないかと、少し偉そうに書いておく。それこそが欲望でしか生きられない他の生物と人間を隔てているものに他ならない。欲望の向こう側は人間にしか行けない場所。そんな道が平坦であるわけがない。

せっかく好きになった趣味だ。長く続けたいではないか。時計を買うことがゴールではなく、それをスタートとする向き合い方。私は65ぐらいで一線を引く人生設計を持っているのだが、少なくともその間は時計を愛好する日々を送りたいと思っている。あっ、後もう10年ちょっとしかない(笑)。いやいや、まだ10年もあると思うことにしよう。

さっきの茶の湯のオマケ。戦場で手柄を立てた戦国武将の滝川一益は、褒美として主人織田信長に珠光小茄子という茶器を所望した。ところがそれは叶わず、代わりに上野一国を与えられ大変落胆したという。一国一城より茶器。ハハハ。私はこの話が好きだ。また、城を攻められて自害する際に、これを奪われるぐらいならと自慢の古天明平蜘蛛に火薬を詰め、それを抱え込んで自爆した松永久秀という武将もいる。ちなみにこの久秀、ゲームの戦国BASARAでは倒すとやはり自爆する(笑)。人間の心というものは本当に面白い。

中野のヴィンテージ2つの話題

先週は中野へ。さすがに平日の夕方なのでどこも空いていた。軽くレポート。

まずジャックさんに置いてあった古いサブマリーナ5513。ご覧あれ。→ここ。スーパーファット(極太)フォント、kissing 4。4が0にチューしているのがおわかりだろうか。3の背中のくぼみがとても小さく、遠目にはストレートに見えるのも特徴のひとつ。ベゼルだけで30万円ぐらいの価値がありそうである。時計は77年製とのことだが、この年代のサブにマーク1ベゼルが装着されていることが正しいのかどうかは知らない。私はこのベゼルだけ欲しい、出来れば12万円ぐらいで(笑)。古いサブのベゼルには他にもskinny 4という、異常にやせ細った4のベゼルがあって、こちらも高価である。ちなみにマーケ2がロング5。写真アップは面倒なので興味がある人はググっていただきたい。マニアックな話題。

その5513とは対極的と言っても良い、ひじょうにきれいな私好みの赤サブがかめ吉さんにあった。→これ。インデックスも針もほぼ白。文字盤もきれいでケースもぶっとい。もしかしたらケース交換されているかも?というぐらいにラグのエッジが立っている。オープン6のマーク3ダイヤルで、値段も赤サブにしてはやや安い130万円台。ガラス越しにシゲシゲと眺めた。惜しむらくは、ブレスが後付けの溝有りハードブレス。巻きブレス好きとしてはそこがやや残念。ここを見て買う人はいないだろうが、一応忠告をしておくと、もしケース6時位置に刻印されているシリアルが44、又は47から始まる6桁だとケースが交換されている。オリジナルにこだわる人は要注意。ただ、この時計はブレスだけではなく、ベゼルも後付けであるよ。それにしても、たったこれだけのweb上の情報で100数十万出して買えないのでは?と思ってしまう。遠方の人にとって、もう少し優しいセールスを考えてもらいたいものである。時計は直接見て、手に取って買うのが基本なのはわかるが、そうもいかない人もいるわけで。

別の店でだが、カマボコ(チュードル79160)の文字盤がテカテカのミラー調とマットの2種が並べて展示されており、初めて見比べることが出来たのが、これもまたマニアックな収穫であった。そうそう、新型デイトナの現物も見た。ブラックだが、もうギラギラである。多くの人同様、私もネットの写真では白が良く見えるのだが、実物の黒は意外にも非常に格好良かった。それと、つい先ごろまで150オーバーだったディープの青は130万円強まで下がっていた。

総体的にはまだ価格は高値安定といったところだろうか。客数はまばら。外国人は少なかったかと。見たかった新型エクワンはどこにも在庫なし。以上、中野レポート。

つぶやき2

せっかく順調だったのにまた間が空いてしまった。そこそこ下書きはあるのだが、いかんせん殴り書きのような状態なのでそのまま掲載はちょっとまずい。まずいというのは、自分の文章が誰かを極端に不快にさせたり傷つけたりしないかどうか、あるいはショップさんに迷惑がかからないか、これらは一応気にしている。このブログにそういう意図はまったくないので。だが、その一方であまりにも無難な内容というのも、これまた書いていてもおもしろくないし、読んでいてもそうだろうから、そのあたりのバランスは結構難しい。実は委託手数料×%(すごく安い、5%よりも安い、おわかり?)などという真っ赤な嘘を公言している店があって、さすがに腹が立って、今日はそれを糾弾する詳細な記事を書きかけたのだが思うところあってやめた。皆の衆、騙されては駄目だ。柄にも合わず私は簿記資格を持っていて、自分で言うのも何だが数字にはすごく詳しい。騙す方もイカンが、騙されるほうも又ダメなのだ。その騙しの鍵は消費税だ。美味しい話には必ず裏がある。

今日はつぶやきスタイル。続ける。
新型GMTマスター青黒がいきなり中古ショップに並び始めた。つい最近まで価格コムでは正規店で探し回っていた人たちの書き込みで溢れていたが、おそらくは供給が増えたのだろう。良いことである。デイトナも欲しい人は多いだろうからそうなれば良いと真に思う。並行店でサクッと買って喜びに浸るのも又良しだ。特にお金のある人。有り余っている人はぜひ天下の回り物としてお金をグルングルン回して欲しいもの。個人的には白が格好いいと思う。

夏は白文字盤と言うが、確かになあと思う。夏の日差しに、例えばエクツーの白は映えるだろうな。私が所有する白文字盤はエルプリデイトナだけ。こういうときに手放した時計のことをフト思ったりするものだ。前のエアキング(114234)とか。でも、もうすぐ夏も終わりだ(笑)。

最近、海外のサイトで旧GMTマスターⅡ16710のキャリバー3186が急激に増えてきているのだが、これがどうにも怪しい。Zの6番台が出始めたのだ。ご存知の通り、M番はすべて3186だが、Z番に限っては8か9の一部に搭載。たまに7でも散見されるのだが、6番台というのは以前はまったくなかった。最近、キャリバー3186のムーブメント単体が出回っているので、乗せ換えの可能性があるのではないかと疑っている。もちろん実際のことは不明だが、私ならそんなリスクは絶対に回避する。高くても狙うなら、やはりM番だ(個人的見解)。

せっかく触れたので最終シリアルのことを。実に馬鹿馬鹿しいと私も思っている。だが、時間を知る道具に数十万円、場合によっては数百万円をかけている時点で、すでに馬鹿馬鹿しい輪っかの中にいるとも言える。私のデスクの上にある、時間を知るための時計(クロック)は1200円であって、時間は実に正確で見やすい。少なくともデイトナよりも見やすい。ロレックスだパネライだパテックだと、原価の百倍ぐらいのブランド使用料に大枚を払っている時点で、まあ全員同じ穴のムジナであるし、その中でもスパイダーだ、フルオリジナルだ、ミラーだと、様々な価値を見出す馬鹿者がいるからこそのマーケットであり、多少大げさに書けば文化でもあって、馬鹿馬鹿しいと思いながら私は今でも最終品番が心底好きであるし、誰かに踊らされているとも思っていない。それに希少であるがゆえに、安易に時計を手放すことの歯止めにも充分なっている。←ハハハ。自己弁護、自己弁護。笑って下され。

先週の休暇中にヴィンテージ物の巻きブレスの駒詰めに挑戦。これは難事である。時計職人ですら嫌がるというこの作業。実は中野の某ショップで青サブを買った際にやってもらった時も、実は少々いびつな仕上がりだった。これはマジで難しい。一応やるにはやったが、やはり完璧には出来なかった。私はハードブレスの予備をいくつか持っているので、巻きブレスはこれかNATOストラップに替えようと思い始めている。しかし、この巻きブレス、びっくりするぐらいに安っぽい。安っぽいのに中古で買うと10数万円。まったく難儀な趣味である。4桁、5桁ではなく、現行だけを追う人の気持ちがよくわかる。最新こそ最良。うむ、うむ。

今日はこんなところでお終い。つぶやき程度での更新は楽であるナ。もうすぐ夏が終わり秋になる。少し名残惜しい。最後に、関係ないが、映画の『シン・ゴジラ』が面白いらしい。日曜日に娘と行こうと思ったら、友だちと花火大会に行くからダメーと。ショボーンである。昔はきゃあきゃあ言いながらついて来てくれたのに。本当、ショボーン(しつこい)。ではまた次回!

夏季休暇

昨日の金曜日は久々の休み。平日に休んだのはいつ以来であろうか。仕事をしようと出社したのだが気が変わったのだ。この土日は休みと前から決めていたのでこれで3連休である。昨年私は永年勤めていた会社を辞めて独立し、ひとりで働いているので今は完璧に自由なのだ。やろうと思えば何でもやって良い立場になり、それならば念願だった時計ビジネスでも始めようかとも画策しているがそれはまた別途。会社を辞めるということは上司がいなくなるということを意味するが、もう少し突っ込んで書くと、あらゆる会社のルールというものは、基本的には怠惰な人間を縛るために権力者が自身の利益保護のために作ったものだということがよくわかる。要するに自己管理が出来るなら、本来人はもっと自由に働いて良い。

ということで昨日は完全オフ。ランチはビール付き。プハーーーー!っと葛城ミサト状態。ハハハ。昼間のビールは実に旨い。お代わりまでしてしまったではないか。暑い中ふらふらと散歩をし、ほろ酔いのまま事務所に戻って、今度は缶チューハイ。それで競馬でも観るかと思ってテレビを付けたらやっていない。そうだ、今日は平日だった!いやあ、贅沢だなあと、またうれしくなってしまい、昨日着用していた16710のM番を鼻歌を歌いながらゴシゴシと洗浄。何だかんだと複数本購入したM番の中で最初に手に入れた最も思い入れの強いブツ。このブログで以前裏蓋を空けた写真を公開した。更に置きっ放しにしている古いチューサブも。さすがにヴィンテージの本体は洗えないので、巻きブレスだけ外して、そのすき間を歯ブラシでゴシゴシと。時計を洗うというのは実に気持ちが良いもの。私も一時期はそうだったから偉そうには書けないが、時計など自分でブレス調整をし、自分で洗わないとダメだ。所詮はモノである。腕に付けるよりも、収納したそれを眺めている時よりも、私はブレスを外したり洗浄している時にこそ自己所有の実感を強く抱く。

そのあとは、夏だからとオーディオでビーチボーイズをかけソファーにごろんと。いやあ夏休みだよ、サマーヴァケーションだよ、楽しいなあと思って(ただの酔っ払い)「サーフィンUSA」などを聴いている内に、やがてグースカピーと昼寝(ぜいたくダナー)。

夜はテレビでオリンピックを観ながら今度はウオッカのコーラ割り。帰宅するタイミングを失ったのでそのまま夜中も観戦。柔道、アーチェリー、競歩。そして最後は錦織のテニス。観た人は分かると思うが大接戦。最後はテレビの前で立って応援。がんばれー!がんばれー!今年の日本人選手はがんばっているなあ。終わったら朝の6時過ぎ。倒れ伏した。昼に起床して寝惚けまなこでONOMAXさんの16520A番黒158万円を発見。これは買いだなと思い、トイレに行き、コーヒーを入れてデスクに戻ったらHOLD。は、はやい。恐るべし、ロレ好きたち!

高校野球もオリンピックも宴たけなわ。お盆が来て終わると、夏も終わる。花火も海水浴も、今年もまた夏らしいことは何もせぬまま終わるのかとしみじみする。子どもの頃は夏があんなに楽しかったのになあとも。盆休みの人はどうぞ良い休暇を。仕事の人は誠にお疲れ様である。それぞれの夏である。

時計という趣味は良いものである

いつかは出る出ると皆が期待するも、ここ数年出なかったSSデイトナ新作が出たせいで、結構な盛り上がりを見せているロレックス市場。欲しい人がたくさんいるのだからもっと供給してあげればと思うのだが、これも同社のマーケティングなのであろう、なかなか入手は難しいようで、中古ショップや並行店では200万円近い値付け。定価からすると高いなあと思うし、腹立たしい人もいるだろう。

よく「並行ショップに踊らされて~」という記述を目にするが、私にはやや違和感があって、人を最も踊らせているのはロレックス社ではないか。マーケットで飢餓感を煽るのは、企業にとってメガヒットが出たときに、売上だけではなく、もっと高い見地からの企業ヴァリューを最大化するための割とありきたりな手法で、ロレックスの得意技でもある。大ブームのときのたまごっちと同じ。高度に技術が発達した現代社会において、いくらクロノグラフだからといっても工業製品の大量生産はいくらでも可能なはずである。ここ数年はパッとしなかったが、やはりさすがロレックス。デイトナ欲しい、デイトナ欲しい、でも手に入らない!が世に蔓延していけば、企業ヴァリューはどんどん上がる。今年のデイトナ新作によって、他のメーカーはこの先数十年は追いつけない、企業としての決定的な差をつけられたのではないだろうか。パネライしかり、オメガしかり。

ランダム番導入以降、ロレックス社は富裕層取り込みに主眼を置いた高級化や宝飾化を図ってきたが、いまひとつ効果を上げることができなかった。手巻きデイトナへのオマージュとも思える今回の新デイトナ活況によって、同社の方針が変わる可能性は大いにある。振り返ると意外と柔軟に同社は過去に評価されたヴィンテージモデルの要素を積極的に取り入れて来た歴史がある。エクスプローラー文字盤ブラックアウト、ミルガウスの稲妻針など。今後はサブマリーナやGMTでのラグジュアリー化も見直され、ヴィンテージテイストに回帰していくようなデザインのスポロレ新作が出てくることで、6桁初期のスポロレは早々と陳腐化していく可能性も有るかもしれない。あー、もちろん、無いかもしれない(笑)。

写真を見る限りでは214270から改良されたエクスプローラー1が良さげに思えるのだがどうだろうか。私のように15cm強しか腕周りがない人間には114270の方がベターだが、それなりの体格の人にはやや小さく映るのも確か。針の長さが改良されたことで文字盤全体のバランスはとても良くなったように感じる。前の214270を持っていて、同じように感じる人は多少売り値は下がろうとも躊躇せずにGOして良いのではないか。

新作を追っかけるのも良し。古いのにこだわるも良い。私はどちらも否定しない。私個人について書けば、新しいものはいつでも入手の可能性があるので、程度の良い古いサブや黒いエルプリデイトナのほう、つまりはヴィンテージ志向バリバリである。先日、海外のサイトでちょっと魅力的な赤シードを発見して、ようやく冷ましたはずの1665熱が再燃してしまった。高いんだなあ、これが。新作を追うのも大変、古いのを追うのも大変ときた。まったく難儀な趣味である。だがやはり時計はいい。心からそう思う。物が無かったり、高かったりして、実物を買えずに妄想しているだけでもこれだけ楽しいんだから、ある程度の理性さえ持っていれば健全な趣味なのかなと思える。さてさて、ふと気づくと子どもたちは夏休みだし、戸外ではミーンミーンとセミが鳴いているではないか。梅雨が明けきらないとは言え、はや夏の到来であったか。年を取ると本当に時が経つのが早くなるなと実感。今日はこの辺りで。

時計を手放すということ

前に手放したことを後悔しているサブノンデイト14060Mの記事を書いた。⇒ここ。実は手放したことについて、それよりも遥かに後悔しているある時計がある。今もって、なぜ私がその時計を売却したのかよくわからない。あれこれと欲しい時計が出てくるも、段々と回す金が減ってきてしまった時期だったのかもしれない。今でも私は自分を許していない。いくら何でもあれは、あれだけは手放しては駄目だっただろうと。私に機械式時計の素晴らしさを教えてくれた時計であり、決して短くはない歳月をともに過ごした良き相棒であった。

酔っぱらって坂道でこけそうになったとき、それを守るために身をよじって転がり、目撃した部下に笑い死にされた。「命よりも大事なんですね」と女子2人が笑いながら抱き起してくれたものだ。夜に歌舞伎町での飲み会予定があった朝、万一を考えてそれではなくオメガ(御免)で出かけ、暑い夏には水道水でじゃぶじゃぶ洗い、毎晩それを外すときは私の1日の戦いが終わったことを意味し、朝それをはめるときはそれがまた始まることを意味した。私にとってそんな時計であった。

魔というのは差すものである。売却してしばらくはどうってことはなかったのだが、やがて私はその時計の喪失感にさいなまれ、自分の行為を悔やんだ。あのデザイン、あの質感…。ある日、たまたま同席した人が同じ時計を持っていたので、手に取らせてもらってため息をついた。「やっぱり、これいいなあ」と。ただ、ご多聞に漏れず私のそれは最終品番だったので容易に入手することはできない。日本のどこにも売っていなかったので、仕方なくようやく海外のサイトで見つけた同じ時計を再度(結構な価格で)入手したのであった。まったく無駄な行為である。それまでは一度手放した時計を買い戻すなどというのは信じがたい他人の行為だったのだが、自分もやる羽目になるとは…。たまたまシリアルが最初に持っていたのと100番ほどしか違わず、出荷国も同じだったので、「あの最初のと同じロットなんだろうなあ」などと考えていたが、どうにもそれは疑似行為というか、やはりその時計はかつての時計ではないのだ。あの厳しかった時期を過ごした時計とは別物である。別れた女性の面影がある別の人と付き合うような女々しさがそこにはあった。

5個も6個も、あるいはそれ以上を所有すると、どうしてもひとつひとつへの向き合いがおろそかになり、愛情や愛着は薄れがちになるが、思い入れのある時計は大事に持っておいたほうがいい。それはあなたにとってかけがえのないスペシャルな時計なのだ。

割と最近のことなのだが、ある日、あるお店で同じモデルが売られているのを見た。希少な時計なので滅多に売りに出ることはないので、売られていることがそもそも珍しい。案の定、それはすでに商談中の札がかかっていて、そこでまた私はかつての相棒を思い出し、少し胸がきゅんとなってしまったのだった。今はどこの誰の腕にあるのだろうなあなどとまたまた女々しい思いにかられつつ帰宅。

結論を書く。その時計こそが私が手放したその物であった。私は、私にとって奇跡のような再会を果たし、そして手に入れた。

経緯を簡単に記すと、店で見かけた翌朝、徹夜明けの寝ぼけマナコで昨日のショップのHPを開き、何気なく写真を見ていて閃光が走ったのだ。このギャラの手書き文字は見覚えがある。急いでPC内のピクチャーフォルダに格納されているかつての写真と比べてみると、まったく同じ字体と日付。ビンゴである!しかもラッキーなことに商談が外れている。これはもう損得ではない。縁としか言いようがない。電話してHOLDしてもらい、銀行で金を下して訪問。何年振りかでかつての相棒を手に取った。

帰宅し、ブレスを調整して腕に巻いた。大した感動が巻き起こりはしなかった。だが、それで良い。感情の奴隷となってはいけないのだ。激しくうねる波のもっと下、水底のように静かな場所で私はささやかな喜びにひたった。こんなことってあるのだなあと、窓の外に目をやると、初夏の日差しが眩しくきらめいていて、何とも言いようのない静かな幸福感を私は感じた。

お祖父さんの舟

去年のこと、遅くに帰宅すると娘が高校受験の問題がさっぱりわからないと言う。読んでみるとこれがさっぱりわからない。高校受験の問題がわからないなどというのは、いくら普段父親らしいことをしていないとはいえ、沽券と威厳に関わるので、何度か読見返してみたが本当にかなり難解な問題であった。

それはある日本の学者の論文なのだが、こういう内容である。漁師だったお祖父さんの使っていた船がある。子の代となり、孫の代になるに従い、古い木材を部分部分で新しく補修していき、とうとうお祖父さんが使っていた当時の木材はまったく無くなってしまった船となった。さて、この船は「お祖父さんの船」と言えるのかどうか、という問いかけが文章ではなされる。これは「テセウスの船」と同じ議題である。

お気づきのように、この命題はヴィンテージ時計におけるオリジナリティの問題にも通じる。例えとして書くが、お祖父さんから子へ、そして孫へと代々譲られた1966年製のサブマリーナがあるとする。この50年の間に幾度か実施されたOHという節目節目にその時計のパーツは交換された。風防、竜頭、針、ベゼル、場合によっては文字盤やケース交換も有り得るし、ムーブの幾つかの部品も交換されたかもしれない。成人となった孫が父から「これはお祖父さんが使い、私が譲り受けた時計だ。今日これをお前に譲ろう」と渡された時計。これは果たしてお祖父さんの時計と言って良いのであろうか。

オリジナル完璧主義者は「それはジイジの時計などではない」というかもしれない。後年に大部分のパーツが交換されたそれはもはや当時の時計とは別物であると。一方、時計に精神性を求める者は、「いや、それは間違いなく爺様の時計である」というかもしれない。代々に渡りその時計を大事にしてきた気持ちが込められているのだからと。

私はその答えには大して興味は持っていない。ただ、時計とは一体何であるかという根本を考えるきっかけにはなった。いや、それ以上に、お祖父さんの舟(時計)をどう扱うべきかという問題を考えるようになった。偉大なる祖父の舟だからと、それを使うことなく後生大事に保管し、そのままの状態を保てば、それは確かにお祖父さんの舟ではあろう。しかし、舟が作られた目的は海に出ていくことであり、保管されることではない。同様にサブマリーナもまた海で使われることを目的として作られたダイバーズウォッチであることを忘れてはいけない。

私は40年以上前に作られた古いチュードル(サブ)を所有するが、防水性への不安から間違っても水洗いは出来ないし、きつい日差しと汗を避けるために真夏には使用しない。私はデザインさえ保たれればそれほどオリジナルであることにはこだわらない(事実1680のケース交換をした記事を前にアップした)が、古いチュードルはすでに日ロレ受付不可である。そういう時計や、あるいは「ヴィンテージはオリジナルこそ命」と考える者にとって、これまでの50年は奇跡的に保てたかもしれないが、これからの5年、10年、更にその先はどうするのかという問題が立ち塞がる。

今日はここまで。私の浅はかな考えをこれ以上ダラダラ書いても、それは皆さんの思考の邪魔にしかならない。さてさて皆の衆、冒頭の舟はお祖父さんの舟であろうか??

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ヤフオクでのロレックス購入記

ヤフオクの実体験について。私はそれほどリスクを恐れないほうである。それは確かな目を持っているという自信があるからではない。あるいは、何かトラブルがあった時に敢然とそれに立ち向かう強い意志を持っているからでもない。むしろそれらの逆である。

私は多少のリスクを得ないと、手に入りにくいものは得られないと考えている。手に入りにくいものとは、市場価格よりも安価な値付けの商品や競争の多い希少な商品というシンプルな意味で書いている。そこはギャンブルであり、もしも何らか瑕疵のあるものを掴まされたら、私はそれをリカバーするためにエネルギーは費やさず、それを自身の負けとして受け入れていく傾向にある。つまりよほどのことがない限り、ちなみに「よほどのこと」というのは悪意のある騙しなどで、そういうのは別だが、主観の差異による返品・返金交渉などはまずやらない。そこにエネルギーは費やさない。賭けに負けたと感じる。

私はちょっとした物をヤフオクで入手することは比較的好きで、多いのは廃盤のCD、個人手作りのもの、ロレックスの付属品などをたまに落札するが、もちろんそれはただの買い物であって賭けではない。しかしロレックスそのものをヤフオクで買うとなると、これはもうギャンブル以外の何者でもないと若年時から張り続けた私は思うのである。そして私は賭けに負けた(苦笑)。やはりヤフオクでロレックスはリスキーであった。

その個体は相場よりも15%ぐらい安い価格(ロレックスだからもちろんそれなりの価格ではある)で出品されていた。分かりやすく書けば(実際には違うが)、相場で100万円のロレックスが85万円ぐらいで出品されている感じ。一見お買い得商品のそれが常にそうであるように、その個体も私が発見したときには多くの質問が、それこそ10を超えるそれがなされていた。狙っている人が多いという証左である。

3桁の「非常に良い」がついていて「悪い」はひとつもなく、過去の売り買いの履歴もまあ普通の人である。怪しげな時計をたくさん出品しているわけでもなく、過去の評価欄を見ても、その個体への回答を読んでも、文体からは親切で丁寧な人であることが伝わってくる。ここでまずハードルは下がる。

時計のセールストークは、購入したものの勿体なくてほとんど着用していません。中古だし主観ですがたいへんきれいです。OHには出していませんが動作に問題はありません、などの言葉が並ぶ。ただし肝心の写真(3枚)は、どれもがやや引き、つまり文字盤やケースが拡大で写されているショットはない。従って、質問の多くは傷の程度や文字盤が鮮明に映った写真への依頼などであったのだが、出品者はそのどれに対しても、とてもフレンドリーな文体で丁寧に返答している。「中古ですから傷は無くはありませんがとってもきれいです!」「時計は間違いなく本物なので、同じ品番の写真をネットで見てください。それとまったく同じです!」。

私はそれほど悩まずに賭けた(入札した)。その個体はどうしても欲しいというわけではなかったのだが、一度ぐらいヤフオクにチャレンジしてみようと考えていたし、それほど古い年式のものでもないのでパチ物のリスクは少ないと判断した。結局誰にも競られることなく私は初のロレックス落札を体験したのであった。取引掲示板でのやり取りはスムーズで翌々日には非常に丁寧な梱包で私の手元に届いたのだが、そのロレックスを目にした私は次の言葉を口にした。「何じゃ、こりゃ?」。腹部を撃たれたジーパン刑事が目をまん丸にして驚愕とともに発したそれではなく、極めて冷静に淡々と私は呟いたのであった。「何じゃ、こりゃ?」と。

傷だらけであった(笑)。どうやったら時計にここまでの傷がつくのかというレベル。時計に傷があるというより、傷にまみれた時計。出品者は確か勿体なくてほとんど着用していないと書いていたのだが、ジャングルの奥地でゲリラとして活動していたのではないかと思った。そうゲバラのように。ただし本物である。それはもう日ロレに持ち込まなくても感覚でわかるほど明確に本物ではあった。シリアルを確認するためにブレスを外すと、そこには大量の茶色い埃だかゴミだか垢だか何かわからないがとにかく汚いものがびっしりと。今度は「うへぇ~」である。まずは爪楊枝にアルコールティッシュを巻いてそれを丁寧に除去。そして水道水で本体とブレスを洗浄。きれいにはなったがやっぱり傷だらけ。そして、タイムグラファーで日差を測ると、マイナス150秒。マイナス15秒ではない、マイナス150秒である。しつこいがここでもまた「何じゃ、こりゃ?」。

賭けは負けであった。単勝1倍台の大本命馬の単複を買ったらビリというぐらいの負け。先ほど書いたように私は返品交渉などはしない。なぜなら出品者の記載に嘘はないからだ。傷は無くは無いがきれいです。これは主観であって数値化されているわけではない。OHに出してはいませんが動作に問題はありません。ふむ確かに動いてはいる。針は確かに右回りに回ってはいる。正直に書くとその個体へのショックはなかった。ただ賭けに負けたというギャンブラーの心理を久々に味わった。1万円でもなく10万円でもないウン十万円の賭けに負けるというのは、経験者はわかるだろうが、ちょっと呆然としてしまうが、そこは気丈な自分、さっと気持ちを切り替えた。昔の武将は結婚にあたり、三日三晩続く婚礼の祝言でどんちゃん騒ぎをし、それが終わってからようやく寝間で相手の顔を見るという。そのときに「何じゃ、こりゃー?」と愕然とするよりはよっぽどマシだと私は考えた。即工房に持ち込み、初めて「研磨をお願いします」と依頼。数週間後に戻ってきたそれをすぐにリリースしたのであった。以前、「使わない時計はかわいそうではない」と書いたが、ここでもまた「すぐに手放される時計はかわいそうではない」を地で行ったことになる。嫁ではない、時計である。

まあオークションなどそんなものだろうと今は思う。大金をはたくものではない。ちょこちょこと安いCDや、せいぜいロレックスの冊子あたりを千円単位で買っている分には楽しいし、そういうスケールのお遊びとして今後は接していこうと考えている。今後、絶対にヤフオクでロレックスを買わないなどと宣言するつもりはないが、まあもう買わないだろう。先ほど書いたように、そこは賭場であり、それが麻雀だろうと競馬だろうと、すべての賭けは依存症ででもなければお遊びの範疇で楽しむものであり、失ったら心底痛いと思える額を張ってはいけないという意味において、私はヤフオクという賭場でロレックスは買うべきではないと自分を戒めた。

最後に、私は出品者に悪意はなかったと思っている。出品額が相場からは安かったことから、むしろ良心的な人だったとすら思う。普通に経済的余裕がある中でロレックスを買い、10年ほど使い倒してからヤフオクで売っただけのこと。だが、だからこそヤフオクは危険だと思った。そこにあったのは悪意ではなく落差だ。ロレ所有者全員が後生大事と丁寧に使っているわけではなく、そういう人と私の時計との向き合いに落差があり、それがまた世間と私の落差でもあるのだろう。ロレックスを購入して、「何じゃ、こりゃ?」はやっぱり正しくない。少しでも参考になればと思っての更新である。

流れていかない時計たち~ヤフーオークション

前に、私は比較的パチには寛容だと書いたが、最近のヤフオクに溢れるパチにはさすがに辟易してきて、どうせならタイプ品のカテゴリーでも作ってくれないかとマジで思う(チュードルなどほとんど偽物だらけで、いくらロレックスの廉価ブランドとはいえ、これではチュードルが可哀想だ)。出品は自由だが、はっきり言って時計リサーチの邪魔なのである。ついでに、本物であろうともなぜショップさんより高いんだという「個人出品ボッタくり価格品コーナー」というのも作って欲しい。今やパチとボッタクリと、オークションでも何でもない相場通りの“ただの売り物”、それらの合間にたま~におもしろいブツがあるというのがヤフオクの現状。今日はその中で私が最も好まない“ただの売り物”、特に個人出品のそれについて。

何年も前に、まだロレックス入門者だった私が有名な並行全国チェーンのある支店で手持ちを売ったときのこと。3本売却したうちの2本はそのショップさんのHPに載ることはなかったから幾らで売られたのかわからないのだが、一本(エアキング)は37万円で売られているのを後で見つけた。買取が22万円だったので、利益率は40%である。ずいぶんと抜くものだと思ったが、その法人の支店はどこも都市部の一等地にあり、店員も多く、地代や人件費を考慮するとまあ仕方ないと今は思える。ちなみに利益率というのは、仕入÷売価。1-(22万円÷37万円)である。約40%。この事例はさすがにやや割高だが、それでもショップさんはやはり買取価格に25%ぐらいは利益を乗せるのが普通だと私は考えている。

ヤフオクの話に戻る。オークションや個人売買のメリットは、掘り出し物が手に入りやすい、他にはやはり売り手・買い手にとって中間マージンのない良い価格で取引が出来るということであろうか。だが一方で多大なリスクがあるのは皆さんもご承知の通り。買い手にとっては、名も無い個人から買うという不安、またもしかしたら偽物、傷物かもしれないという不安があるし、故障した際の保証がないというリスクもある。一方、売り手もやはり相手(買い手)が見えない不安(金払いが悪かったり、狂気のようなクレーマーだったり、そういう悪質な買い手というのは一定数必ず社会には存在する)もある。

それらのリスクを冒してもヤフオクで時計を売買するのなら、上のエアキングをモデルケースに書けば、買い手は37万円よりは安く入手して然るべきであるし、売り手は22万円よりは高くないとヤフオクに出す意味がない。わかりやすく再度強調の意味で書く。

私のエアキングをお店は22万円で買い取り、それを37万円で新たな客に売った。

この事例をベンチマークにすると、そのエアキングがヤフオクで30万円で落札されたらかなり美しい取引だと私は思う。売り手は22万円より高く売れたわけだし、買い手は店頭相場の37万円よりも安く買えたので、お互いに相場よりもいい値で取引が出来ている。美しいなあと心から思う。入札者はこういうハッピーな着地を目指してBIDすべきだし、出品者はそうなる設定をしてスタートさせるべきだ。ライバルがいなければ入札者はもっと安く手に入るし、逆にライバルが多くて競ってくれれば出品者はうれしくてドキドキするだろう。それこそがオークションの醍醐味というもの。

だが今のヤフーオークションでは、個人出品者が中間マージンをすべてポッケに入れるという、エアキングを例に取ると、37万円か、下手するとそれ以上の価格で出品されており、そんな個体だらけ。いや、それどころか、それより遥かに高い値付けの物も多い。あるいは、誰もがげんなりする「最低落札価格」有りの出品。

インターネットが発達して情報をいくらでも拾えるこの時代に、そういう時計はまず取引が成立していない。実際のところ、店頭価格と同等かそれ以上で個人出品されているロレックスが落札されたのを、少なくとも私はこの数年間で一度も見たことがない。100万円超えのデイトナが落札されたことはあっても、やはり店頭価格よりは安かったからだ。だから、取引が成立していないために実害はほとんどなく、在るのはそういう値付けをされたままいつまでもとどまり続けているたくさんの時計たちである。

ある医師が私に言った。「流れることが大事なんです。血液がさらさらと流れないと細胞は死んでいく。川もそうでしょう。流れない川はよどみ、そして腐臭すら放ち始める。あなたの生きるビジネスの世界も同じはず。物とお金が動くこと、それが大事でしょう?」。

なぜ流れないか。はっきり書いておく。誠意がないからだ。

私が働く業界でかつて“ビジネスの神”と呼ばれた男がいた。本当に手品のように億単位、数十億単位のディールをまとめ上げ続けるその手法は今もって私には真似できないのだが、彼のすごかったところは30年以上そういう実績を上げ続けたことだ。つまり彼は“勝った男”ではなく、“勝ち続けた男”だったということ。清濁併せ飲むとは彼のようなことを言うのだろう。汚いところもたくさん持っていた役員だった。その彼が当時まだ20代だった私にビジネスとは何だ?と、まるで禅問答のように問うたことがある。面接マニュアル本に書いてあるような詰まらない答えを言おうとした私を途中でさえぎり、まるでやくざか犯罪人のような面相の“神”は真顔で「ビジネスとは相手を幸せにすることだ」と言った。考えてもみなかった答えだったので、私は竹刀で頭をぶん殴られたように気持ちになったことを今でも覚えている。今、思い出すと、毎日誰かが彼を訪ねてきていた。いつもひっきりなしの千客万来。そういうことだったのだろう。

ロレックスは高い。売るのも、買うのもべらぼーに高い。日々汗して働いた給料から絞り出すように捻出したお金で買うわけで、そうであるからこそ、私はいつも自分も相手も笑顔になれる買物にしたいと思う。お店は売れたことで利益となり、それが家賃や従業員の給料、あるいは次の仕入の資金となり、時計という市場の中で物とお金が動いていく、そして私もまた自分の稼いだお金の対価として欲しかった良質な時計が手に入る。お互いに「ありがとう」の対等かつ友好的な関係であり、そこには笑顔があり、幸福感すら漂う。

ヤフオクでも、誠意ある出品はたくさんあることを私は知っている。過去手作りのお猪口を買ったことがあるのだが、とても丁寧な品で届いたときの心づくしもすばらしいものだった。又ある廃盤CDを落札した際に取引連絡で盛り上がり、送られてきた商品にたくさんのグッズが同梱されてきて、私もうれしかったのでお返しをしたことも良き思い出である。だが、ことロレックスになると、もう欲望ギラギラの出品ばかり。相手には相場通りの高額な出費を強いて、自分だけが得をし、そしてお決まりのノークレーム・ノーリターン。買い手への思いやりもきっとゼロではないのだろうが、その欠片ですら見出すのは難しい。

流れゆかずいつまでもとどまり続ける時計たち。そこにあるのは時計ではなく、時計に姿を変えた人間の欲望であると言ったら言い過ぎであろうか。私は一度だけヤフオクでロレックスを買い、痛い目に合って懲りた。あまり振り返りたくない出来事だが、読んでくれている方々の多少の参考にはなるだろうから、次回はそのことについて書く。それにしても今日は暑かった。みなさん水分補給としっかりと睡眠を。
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